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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] ヒロシマ平和メディアセンター長 金崎由美 スミソニアン原爆展「中止」30年 「神話」への問い これからも

 米国時間で30年前の1995年1月30日、広島と長崎の市民にとってやるせない一報が、かの地から入った。首都ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館が被爆50年に計画した「原爆展」は事実上中止に。広島と長崎の原爆犠牲者の遺品や被爆資料は展示せず、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機体の一部だけを公開することになった。

 原爆は戦争の早期終結に不可欠だったのであり、日本本土への地上作戦に至れば失われたはずの100万の命を救った―。そんな「原爆神話」を盾に、退役軍人団体や政治家らが展示案に猛反発した。連邦議会に予算を握られている博物館は屈した。3カ月余り後、マーティン・ハーウィット館長は辞任に追い込まれた。

 時がたち、いまや多くの米国人観光客が広島に足を運んで原爆資料館で展示に目を凝らす。現職の米大統領として、既にオバマ氏とバイデン氏が広島訪問を果たした。広島、長崎両市は各地で原爆・平和展を開くなど、世界に原爆被害の実態を伝えている。「スミソニアン論争」は過去になりつつあるようにも見える。

 だが、そう簡単ではない。被爆70年の節目にハーウィット氏を取材した際に聞いた言葉がいつも心に引っかかっている。「歴史上の出来事が『国家のアイデンティティー』『国家の歴史』になれば、その記憶は祖父母や親に名誉を授けたい子どもの世代に受け継がれる」というものだ。

 博物館側から広島に展示計画が知らされたのは93年だった。4月にハーウィット氏が当時の平岡敬市長を訪ね、「広島の苦しみを伝えるには欠かせない」と資料の貸与を要請したという。黒焦げの弁当箱、動員学徒の服などだった。

 資料館の館長だった被爆者の原田浩さん(85)は「遺品が兵器としての威力を誇示する材料にされないか」と警戒した。米中枢での展示を国論が許すのか、と疑念も抱いたと振り返る。とはいえ実現すれば、原爆の悲惨さを投下国で伝えることができる。原田さんが「8月6日の広島も知るべきだ」とハーウィット氏に語ると、4カ月後に再来日した。そこに誠意と本気を感じたという。

 しかし案の定、展示台本の初稿ができると、空軍協会や退役軍人団体が「展示は誇り高く、愛国的でなければならない」「日本は被害者ではない」などと批判を強めていった。米上院は「原爆投下は戦争を慈悲深く終わらせるのに役立った」と決議。台本の改訂を重ねる中で遺品展示は縮小し、戦後の冷戦と核時代を問う項も削られた。他方、旧日本軍の残虐行為を伝える写真が加わった。

 企画展の諮問委員を務めた歴史学者や平和運動家が「妥協」に猛抗議したが、届かなかった。95年6月からの展示では、銀色に輝くエノラ・ゲイの一部だけが置かれた。2003年、地上の死傷者数などの被害説明は全くないまま、復元を完了した機体が郊外の別館で常設展示された。

 対する広島市は30年前、同じく首都のアメリカン大で原爆展を開いた。当時開催に携わった一人がピーター・カズニック教授だ。学生を日本に引率して被爆証言を聞く研修を続け、昨年は日本被団協の代表団の一員としてノーベル平和賞授賞式に参列した。「神話」に抗して発信してきた立場から「原爆が戦勝の栄光であり、必要だったとする限り、米国は核保有の否定に向かわない」と断じる。

 逆に言えば、「神話」を棚に上げて米国に働きかけるだけでは、廃絶を阻む本質的な問題が置き去りになるとの指摘だろう。

 平岡氏も95年当時を振り返り、「原爆投下は過ちだったと米国が認めずして、先には進まない。被爆地から責任を問い続けるべきだ」と語る。確かに、国に対する責任追及は「報復」とは違う。市民間の交流や対話、各国からの市民を温かく迎える心と十分に両立する。「神話」の陰で可視化されないまま苦しむ原爆開発と実験の被害者たちの訴えに、関心を寄せる契機にもなるのではないか。

 ここで責任を問われるのは米国にとどまらない。原爆展に反対した人たちが掲げた、日本の戦争行為を巡る主張自体には耳を傾けるべきだ。「国家の歴史」を批判的に検証し、現在を問いながら、平和な未来を志向することが求められている。

 日本被団協の田中熙巳(てるみ)代表委員はノーベル平和賞授賞式の壇上で、死没者を含めた原爆被害者に国家補償をすべきだと重ねて訴えた。日本被団協が掲げる「原爆被害者の基本要求」は、戦争を起こした日本と、原爆を投下した米国の両方に責任を問うていることと重ね合わせながら、考えたい。

(2025年1月30日朝刊掲載)

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