[ヒロシマドキュメント 1946年] 1月30日 夫亡くした女性の叫び
25年1月30日
1946年1月30日。中国新聞に「罹災(りさい)女性の血の叫び」の見出しで、夫を原爆や戦地で亡くした広島市の女性2人の声が載った。働き手を失い、幼い子どもを抱えて物価の高騰や食糧難に苦しんでいた。
三篠本町(現西区)の女性は、左官町(現中区)で鉄工所を営んでいた夫や母、長女を原爆に奪われた。9月には郊外の避難先で枕崎台風にも遭い、無一文となって5人の子どもとバラックに暮らしていた。
十分な布団や衣服がなく、子どもたちは寒さに震えていた。食材も高くて買えない。「一日中食べ物の心配に追はれてあくせくしてゐるのが今の私の生活の全部かも知れない」。収入はなく、三男を養子に出そうとも考えていた。
もう一人の女性は夫が戦死。幼児を抱えて途方に暮れ、政府に対し「決して贅沢(ぜいたく)はいひません、その日その日だけでも何とか暮せるやうにして戴(いただ)けないものでせうか?」と支援を切望した。
当時、広島県立広島商業学校(現県立広島商業高)1年生だった竹内章さん(91)=西区=も被爆約1カ月後に父秀さん=当時(45)=を失っていた。東観音町(現西区)で父が営んでいた石粉の製造工場と自宅は焼失。当時41歳の母みは子さん(76年に73歳で死去)は幼い弟2人と甲奴村(現三次市)の郷里へ身を寄せた。
竹内さん自身は楽々園(現佐伯区)の親戚宅から江波町(現中区)へ通学していた。休日に甲奴村を訪ね、寒さをしのぐためにいとこの服をもらったり、普段は味わえない白飯を食べたりした。「とにかく暖かい服を着たかった。普段は『江波だんご』が食べられれば良い方だった」
親戚の援助も受け、47年に自宅跡にバラックを建て、家族4人で暮らし始めた。「母は口には出さなかったが、男児3人を抱え苦労したと思う」としのぶ。(山下美波)
(2025年1月30日朝刊掲載)
三篠本町(現西区)の女性は、左官町(現中区)で鉄工所を営んでいた夫や母、長女を原爆に奪われた。9月には郊外の避難先で枕崎台風にも遭い、無一文となって5人の子どもとバラックに暮らしていた。
十分な布団や衣服がなく、子どもたちは寒さに震えていた。食材も高くて買えない。「一日中食べ物の心配に追はれてあくせくしてゐるのが今の私の生活の全部かも知れない」。収入はなく、三男を養子に出そうとも考えていた。
もう一人の女性は夫が戦死。幼児を抱えて途方に暮れ、政府に対し「決して贅沢(ぜいたく)はいひません、その日その日だけでも何とか暮せるやうにして戴(いただ)けないものでせうか?」と支援を切望した。
当時、広島県立広島商業学校(現県立広島商業高)1年生だった竹内章さん(91)=西区=も被爆約1カ月後に父秀さん=当時(45)=を失っていた。東観音町(現西区)で父が営んでいた石粉の製造工場と自宅は焼失。当時41歳の母みは子さん(76年に73歳で死去)は幼い弟2人と甲奴村(現三次市)の郷里へ身を寄せた。
竹内さん自身は楽々園(現佐伯区)の親戚宅から江波町(現中区)へ通学していた。休日に甲奴村を訪ね、寒さをしのぐためにいとこの服をもらったり、普段は味わえない白飯を食べたりした。「とにかく暖かい服を着たかった。普段は『江波だんご』が食べられれば良い方だった」
親戚の援助も受け、47年に自宅跡にバラックを建て、家族4人で暮らし始めた。「母は口には出さなかったが、男児3人を抱え苦労したと思う」としのぶ。(山下美波)
(2025年1月30日朝刊掲載)