[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1947年12月5日 歌集さんげ「発行日」生々しい修羅場の100首
25年1月31日
1947年12月5日。広島で被爆した歌人の正田篠枝さん(65年に54歳で死去)が歌集「さんげ」を出版した。親類や友人に配る私家版として印刷部署のあった広島市の広島刑務所でひそかに150部を刷り、奥付でこの日を発行日とした。原爆の惨禍を詠んだ100首を収めた。
懺悔の思い抱え
「死ぬ時を強要されし同胞(はらから)の魂にたむけん悲嘆の日記」。死者に思いを寄せる歌を巻頭に、被爆時の生々しい「修羅場」が続く。「ピカツドン一瞬の寂(せき)目をあけば修羅場と化して凄惨(せいさん)のうめき」「奥さん奥さんと頼り来れる全身火傷や肉赤く柘榴(ざくろ)と裂けし人体」…。
歌集の題は生き残った自分を省みて感じる「懺悔(ざんげ)」の心情からとったという。「(さんげの出版は)即死され、またあとから亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残って歎(なげ)き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもり」だったと手記「耳鳴り」(62年)に記す。
34歳だった45年8月6日、爆心地から1・7キロの平野町(現中区)の自宅で負傷し、大野村(現廿日市市)にあった正田家の山荘に逃げた。そこでけが人を受け入れ、救護しながら、悲惨な体験を聞く。戦前から歌を詠んで雑誌に投稿しており、見たもの、聞いたものを短歌で表した。
46年、作品を携えて師事する東京の歌人、杉浦翠子さんを訪問。杉浦さんは歌集出版へ序文を寄せ、後押しした。人類史上初の原爆の惨禍を「ひたすらに対象を正視し凝視して、描写された」(序文)と評価した。
ただ、連合国軍総司令部(GHQ)が45年9月にプレスコードを発令。「占領軍に対し不信もしくは怨恨(えんこん)を招来するような事項を掲載してはならぬ」などと命じ、検閲も進めていた。米軍批判につながる内容の原爆報道や出版は制限された。
検閲避け少部数
「さんげ」は原爆の残虐さをありありと伝えるが、刑務所での少部数の印刷で、検閲は免れたとされる。正田さんは「秘密出版」(「耳鳴り」)と回顧。同時に、原爆の「ありのまま」を詠んだ歌集もそうせざるをえない状況を「当たり前のことが、その時代の権力者の利益にならない、痛い所をえぐられる事から、いけないという事になる」(同)と批判した。
同じ47年は、歌人で中国新聞社社員の山本康夫(本名・安男)さん(83年に80歳で死去)も歌集「麗雲」を出した。次男が44年に急死した翌年、広島一中(現国泰寺高)1年だった長男真澄さん=当時(13)=を原爆で亡くし、その体験や思いを詠んだ歌を収めた。
「その声は真澄ならずやよくもよくもかかる深傷(ふかで)の体運び来し」。山本さんの手記(54年の「星は見ている」収録)によれば、真澄さんは45年8月6日に市中心部の建物疎開作業に出た後、全身に大やけどを負って帰宅。その日の夜、「本当にお浄土はあるの?」などと漏らし、息を引き取った。
「わが掌(て)おく額の温み冷え果てぬ吾子よ吾子よすでに命絶えたり」。歌集出版は「子供の霊への手向け」(巻末文)として考えた。用紙の準備などに数カ月奔走し、親子を引き裂いた被爆死を刻んだ。(山下美波)
(2025年1月31日朝刊掲載)
懺悔の思い抱え
「死ぬ時を強要されし同胞(はらから)の魂にたむけん悲嘆の日記」。死者に思いを寄せる歌を巻頭に、被爆時の生々しい「修羅場」が続く。「ピカツドン一瞬の寂(せき)目をあけば修羅場と化して凄惨(せいさん)のうめき」「奥さん奥さんと頼り来れる全身火傷や肉赤く柘榴(ざくろ)と裂けし人体」…。
歌集の題は生き残った自分を省みて感じる「懺悔(ざんげ)」の心情からとったという。「(さんげの出版は)即死され、またあとから亡くなられたひとを、とむらうつもり、生き残って歎(なげ)き悲しみ、苦しんでいる人を、慰めるつもり」だったと手記「耳鳴り」(62年)に記す。
34歳だった45年8月6日、爆心地から1・7キロの平野町(現中区)の自宅で負傷し、大野村(現廿日市市)にあった正田家の山荘に逃げた。そこでけが人を受け入れ、救護しながら、悲惨な体験を聞く。戦前から歌を詠んで雑誌に投稿しており、見たもの、聞いたものを短歌で表した。
46年、作品を携えて師事する東京の歌人、杉浦翠子さんを訪問。杉浦さんは歌集出版へ序文を寄せ、後押しした。人類史上初の原爆の惨禍を「ひたすらに対象を正視し凝視して、描写された」(序文)と評価した。
ただ、連合国軍総司令部(GHQ)が45年9月にプレスコードを発令。「占領軍に対し不信もしくは怨恨(えんこん)を招来するような事項を掲載してはならぬ」などと命じ、検閲も進めていた。米軍批判につながる内容の原爆報道や出版は制限された。
検閲避け少部数
「さんげ」は原爆の残虐さをありありと伝えるが、刑務所での少部数の印刷で、検閲は免れたとされる。正田さんは「秘密出版」(「耳鳴り」)と回顧。同時に、原爆の「ありのまま」を詠んだ歌集もそうせざるをえない状況を「当たり前のことが、その時代の権力者の利益にならない、痛い所をえぐられる事から、いけないという事になる」(同)と批判した。
同じ47年は、歌人で中国新聞社社員の山本康夫(本名・安男)さん(83年に80歳で死去)も歌集「麗雲」を出した。次男が44年に急死した翌年、広島一中(現国泰寺高)1年だった長男真澄さん=当時(13)=を原爆で亡くし、その体験や思いを詠んだ歌を収めた。
「その声は真澄ならずやよくもよくもかかる深傷(ふかで)の体運び来し」。山本さんの手記(54年の「星は見ている」収録)によれば、真澄さんは45年8月6日に市中心部の建物疎開作業に出た後、全身に大やけどを負って帰宅。その日の夜、「本当にお浄土はあるの?」などと漏らし、息を引き取った。
「わが掌(て)おく額の温み冷え果てぬ吾子よ吾子よすでに命絶えたり」。歌集出版は「子供の霊への手向け」(巻末文)として考えた。用紙の準備などに数カ月奔走し、親子を引き裂いた被爆死を刻んだ。(山下美波)
(2025年1月31日朝刊掲載)