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[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 広島県医師会長 松村誠さん(75) 碓井静照「ヒロシマの医師」に使命

 広島県医師会の会長に就いて5年目。被爆地の会員を束ね、数々の役を担う。北米や南米での被爆者健診に赴き、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部長も務める。いつも心に抱くのは「ヒロシマの医師としての使命」。被爆者に寄り添い、核兵器廃絶のために行動する―。元県医師会長碓井静照さん(1937~2012年)に学んだ姿勢である。

 広島市内で内科医院を営みながら被爆者支援や反核活動に力を注ぐ碓井さんを知ったのは、30年ほど前。市医師会の会長選に立候補した碓井さんが、演説会で年上の候補者を相手に医師会改革について「堂々と論陣を張る姿」に感動した。「すごい人だと、一方通行で慕っていました」。98年に碓井さんが市医師会長に就くと理事として支えた。地域医療の発展に心を砕き、著書刊行などを通し、ペンでも発信する姿を間近で見た。

 碓井さんはIPPNWや医師会メンバーとして早くから世界の核被害地も訪ねていた。90年には崩壊前のソ連を、90年代初頭には旧ソ連時代の核実験や原発事故によって汚染されたカザフスタンやベラルーシ、ウクライナを訪問。住民の聞き取りや現地医師との意見交換などを通じ、放射線被曝(ひばく)の実情に触れた。

 原点には、8歳の時に爆心地から約2・3キロの自宅近くで被爆した体験があったようだ。自身は助かったものの市中心部から逃げてくる焼けただれた人々を目の当たりに。自ら傷つきながらも負傷者の救護に当たった医師の存在を知り、「将来医者になって傷ついた人を助けたいと思った」と自著につづる。

 2004年、県医師会長に就いた碓井さんは米国などに暮らす被爆者健診の事業にも情熱を注いだ。02年に国の支援事業に位置づけられ、今も続く在米被爆者健診は、米国の被爆者の強い要請を受け、県医師会が中心となって、77年に始めた経緯がある。

 ある日、碓井さんから健診団への参加を打診された。「二つ返事で引き受けました」。被爆2世として、被爆者の母親の姿を見て育ち、家族にも多くを語れぬ被爆者の苦悩や健康不安を感じ取ってきた。日々の診療でも多くの被爆者と向き合ってきた。「海外で暮らす被爆者はさらなる苦しみを抱えているはず」

 05年、米国に派遣された医師団に加わった。その後も米国のほか、ブラジルなど南米にたびたび赴いてきた。「広島弁で接すると、懐かしがって安心してもらえる」。意義を感じている。

 在外被爆者は今、被爆者援護法に基づき、日本の被爆者とほぼ同等の援護を受けられるが、長く援護法の枠外に置かれていた。2000年代は、政府の援護策を前進させるため在外被爆者が司法に訴える動きも活発だった。そうした動きを「政治的」と毛嫌いする医師も少なくなかったが、碓井さんは「被爆者はどこにいても被爆者」と、人道の視点から援護充実を訴えた。日本と国交がなく、置き去りにされている北朝鮮の被爆者も思いやり、08年と11年に訪朝。被爆者と面会し健康状態の聞き取りもした。

 そんな碓井さんの背中を追うように歩んできた。市医師会長時代の13年には被爆体験継承や被爆医療の底上げを目的とする「ヒロシマ被爆二世医師会議」を設立し、在外被爆者たちを招いた講演会も企画した。「先生は何をすべきか考えるとき一番にヒロシマの原点に立ち戻ると話していた。私も同じ」。行動し、次代の医師に背中を見せる。(小林可奈)

まつむら・まこと
 広島市佐伯区生まれ。1974年、広島大医学部卒。同大医学部付属病院第一外科などを経て、84年、松村循環器・外科医院を開業。市医師会理事、県医師会副会長などを歴任し、2013~20年、市医師会長。20年6月から現職。佐伯区在住。

在米被爆者健診
 原爆投下国で、原爆後障害への現地医師の無理解や健康不安、言葉の壁などに悩まされていた在米被爆者が、国や広島市に専門医派遣を再三要請したのを受け、1977年、広島県医師会が放射線影響研究所(放影研)と共に開始。原則隔年で医師団を派遣してきた。85年から国と広島・長崎両県が事業主体となり、南米にも赴く。2002年、国の在外被爆者支援事業に位置づけられた。

(2025年2月3日朝刊掲載)

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