[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1947年12月7日 昭和天皇の訪問 爆心地近く 5万人参集
25年2月2日
1947年12月7日。昭和天皇が被爆後の広島市を初めて訪れた。爆心地に近い旧広島護国神社前(現中区)の市民広場に「戦災者を含む市民約五萬」(8日付本紙)が参集。「奉迎台」から「お言葉」を述べた。
「この度(たび)は皆の熱心な歓迎をうけて嬉(うれ)しく思う。本日は親しく広島市の復興の跡をみて満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない」(同)
45年8月15日にラジオで伝えられた終戦詔書で、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ」と広島、長崎の惨禍に触れていた。9月には永積寅彦侍従を広島へ視察に派遣。被害を記録した写真集を見た。
46年1月、天皇の神格性を否定する「人間宣言」が発せられ、47年5月には天皇主権だった大日本帝国憲法に代わる新憲法が施行。1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。
世界平和訴え
昭和天皇の広島訪問は46年2月からの地方巡幸の一環。「お言葉」をこう締めくくった。「われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」
「お言葉が終ると、水を打ったように静かだった群衆のなかから、ドッと歓声があがった」。浜井信三市長は著書「原爆市長」(67年)に記す。その後、市庁舎の屋上から市内の状況を説明すると、「『家は建ったね』と、ポツンとひとことおっしゃった」という。
47年12月8日付本紙は、1面で市民の歓迎ぶりを伝え「涙で誓う『平和日本』」の見出しを掲げた。海外メディアも昭和天皇の広島訪問を報じ、米紙ニューヨーク・タイムズは見出しに、昭和天皇が「新たな『真珠湾攻撃』を否定」と取った。
41年12月8日、昭和天皇の意思を示す「開戦の詔勅」が出され、国が始めた米国との戦争の末に、広島に原爆が落とされた。被爆直後に父、姉、弟を失った漫画家の中沢啓治さん(2012年に73歳で死去)は、旗を振って歓迎する人を横目に「必死で怒りを押さえ震えていた」と「『はだしのゲン』自伝」(94年)に書き残す。8歳だった。
皇太子を招く
昭和天皇に続き、皇太子(現上皇さま)を「お招き」する動きが、市内の児童代表から起こった。48年3月、基町(現中区)の広島児童文化会館の開館式への「臨幸招請状」を送り、「日本再建に大きな夢抱く子供たちを激励してください」(28日付本紙)と願った。
5月の開館時はかなわなかったが、皇太子が15歳だった翌49年4月5、6日に実現。爆心地近くの平和塔や市戦災死没者供養塔を訪れた。児童文化会館での「お迎えの会」では次のような「お言葉」(7日付「夕刊ひろしま」掲載)を発した。
「あの惨劇に二度と人類をおとしいれぬよう、私たちはかたい決意をもつて平和に向わなければなりません。そのためには皆さん広島の人たちは身をもって大きな力とならねばならない。がんばって下さい。私も責任を自覚して勉強や修養に努力したいと思います」(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月2日朝刊掲載)
「この度(たび)は皆の熱心な歓迎をうけて嬉(うれ)しく思う。本日は親しく広島市の復興の跡をみて満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない」(同)
45年8月15日にラジオで伝えられた終戦詔書で、「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ」と広島、長崎の惨禍に触れていた。9月には永積寅彦侍従を広島へ視察に派遣。被害を記録した写真集を見た。
46年1月、天皇の神格性を否定する「人間宣言」が発せられ、47年5月には天皇主権だった大日本帝国憲法に代わる新憲法が施行。1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされた。
世界平和訴え
昭和天皇の広島訪問は46年2月からの地方巡幸の一環。「お言葉」をこう締めくくった。「われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」
「お言葉が終ると、水を打ったように静かだった群衆のなかから、ドッと歓声があがった」。浜井信三市長は著書「原爆市長」(67年)に記す。その後、市庁舎の屋上から市内の状況を説明すると、「『家は建ったね』と、ポツンとひとことおっしゃった」という。
47年12月8日付本紙は、1面で市民の歓迎ぶりを伝え「涙で誓う『平和日本』」の見出しを掲げた。海外メディアも昭和天皇の広島訪問を報じ、米紙ニューヨーク・タイムズは見出しに、昭和天皇が「新たな『真珠湾攻撃』を否定」と取った。
41年12月8日、昭和天皇の意思を示す「開戦の詔勅」が出され、国が始めた米国との戦争の末に、広島に原爆が落とされた。被爆直後に父、姉、弟を失った漫画家の中沢啓治さん(2012年に73歳で死去)は、旗を振って歓迎する人を横目に「必死で怒りを押さえ震えていた」と「『はだしのゲン』自伝」(94年)に書き残す。8歳だった。
皇太子を招く
昭和天皇に続き、皇太子(現上皇さま)を「お招き」する動きが、市内の児童代表から起こった。48年3月、基町(現中区)の広島児童文化会館の開館式への「臨幸招請状」を送り、「日本再建に大きな夢抱く子供たちを激励してください」(28日付本紙)と願った。
5月の開館時はかなわなかったが、皇太子が15歳だった翌49年4月5、6日に実現。爆心地近くの平和塔や市戦災死没者供養塔を訪れた。児童文化会館での「お迎えの会」では次のような「お言葉」(7日付「夕刊ひろしま」掲載)を発した。
「あの惨劇に二度と人類をおとしいれぬよう、私たちはかたい決意をもつて平和に向わなければなりません。そのためには皆さん広島の人たちは身をもって大きな力とならねばならない。がんばって下さい。私も責任を自覚して勉強や修養に努力したいと思います」(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月2日朝刊掲載)