×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月 ビヤホール 焦土に潤い

 1946年2月。爆心地から670メートルにあった広島市堀川町(現中区)のキリンビヤホールは、営業再開から1カ月余りたち、焼け跡に暮らす人たちの喉を潤していた。

 鉄筋3階地下1階建てで、38年に完成。麒麟(きりん)麦酒の子会社がレストラン形式で開店し、家族連れでビールと食事を楽しめる人気店だった。戦時下で酒が配給制になっても、ビールを求める多くの人でにぎわった。原爆投下当日は定休日で店内には誰もいなかったが、地下を除いて全焼。45年12月26日に営業再開にこぎ着けた。

 広島県府中町には、ビヤホールと同じ38年完成の麒麟麦酒広島工場があり、ビールの供給を支えていた。爆心地から約4キロで窓や壁を損傷したが、大きな被害を免れた。出勤途中などで広島市内にいた従業員5人が犠牲になった。

 「広島工場には『ビールをつくりたい』という本能的な意志が脈打っていた」(88年刊の「キリンビール広島工場50年史」)。45年12月に神崎工場(兵庫県尼崎市)から満員列車で酵母を運び、広島駅から大急ぎで工場に持ち込んで仕込んだという。46年6月には進駐軍に納めるビールを造り始める。

 「広島の復興を一杯のビールも後押ししたはず。人々の喜怒哀楽のそばにいつもあった」。今の中区で祖父の代から酒店を営む、重富寛さん(62)は力を込める。ビヤホールの建物は91年に解体されるが、跡地に立つ広島パルコ本館の外壁に、モニュメントとして一部が保存されている。(山本真帆)

(2025年2月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ