[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1948年8月6日 第2回平和祭 「ノーモア」世界に共鳴
25年2月5日
1948年8月6日。第2回平和祭の式典が、広島市中島本町(現中区の平和記念公園)の平和広場で営まれた。会場には、第1回にはなかった「ノーモア・ヒロシマズ」の巨大看板が設けられた。
運動の標語に
この年、この言葉をスローガンにした平和運動が広がっていた。言葉の生みの親はUP通信東京特派員のルサフォード・ポーツ記者。広島で被爆した谷本清牧師を48年3月に取材し、本人の考えをノーモア・ヒロシマズと英訳して報じた。
報道に触発された米オークランド市の教会管理人、アルフレッド・パーカーさんは、この言葉を平和運動のスローガンに掲げ、8月6日を「世界平和デー」にしようと、英国やフランスなどの平和団体に呼びかけた。4月、26カ国の発起人で委員会を結成した。
谷本さんや浜井信三市長も要請を受け、発起人に加わった。谷本さんの著書「ヒロシマの十字架を抱いて」(50年)によれば、パーカーさんはオーストリアで育ち、ナチス・ドイツの侵略を逃れて渡米。第2次大戦後、戦災国に救援物資を送る活動をしていた。「ノーモア・ヒロシマズ運動」を「人類愛の叫び」と説き、賛同を募った。
48年8月6日、発起人それぞれの国で平和行事が計画された。浜井市長は3日に発した談話で、「世界平和運動が世界20ケ国以上にわたつて行われることは、われわれの念願が漸(ようや)く波紋を拡(ひろ)めつつある一証拠」と歓迎。6日の式典で読み上げた平和宣言でも、スローガンに同調し「再び第二の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念する」と訴えた。
米市長が賛意
市は、この平和宣言に平和都市建設の意欲を記したメッセージを同封して、世界160都市の市長に送った。9月上旬までに米国を中心に約30都市から返信があった。米サンフランシスコ市長は「おそろしいアトムのような破壊的なものが再び地球上に落ちないことを希望する」(8月22日付本紙)と賛意を示した。
原爆投下国の市民や首長に連帯の動きがある一方、6日の式典では占領軍の出席者が原爆投下を「懲罰」と正当化する一幕もあった。
英連邦軍司令官ロバートソン中将は会場で発したメッセージで「日本は裏切り的に英連邦諸国民と米国民を襲撃し、非常な痛苦を与えた」と指摘。「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばならない」と述べた。
式典には、英連邦の一員、オーストラリアの国会議員団一行8人も出席。浜井市長が中将の通訳に聞いた話によれば、メッセージは直前に加筆され、占領軍が日本人を「甘やかし過ぎ」とみる議員への配慮とみられた(67年の著書「原爆市長」)。
議員団の出席は、日本が民主化するかどうかを現地で確かめる一環だったという。旧日本軍の加害や、日本が新たに掲げる「平和国家」の本気度に、海外から厳しい視線も注がれていた。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月5日朝刊掲載)
運動の標語に
この年、この言葉をスローガンにした平和運動が広がっていた。言葉の生みの親はUP通信東京特派員のルサフォード・ポーツ記者。広島で被爆した谷本清牧師を48年3月に取材し、本人の考えをノーモア・ヒロシマズと英訳して報じた。
報道に触発された米オークランド市の教会管理人、アルフレッド・パーカーさんは、この言葉を平和運動のスローガンに掲げ、8月6日を「世界平和デー」にしようと、英国やフランスなどの平和団体に呼びかけた。4月、26カ国の発起人で委員会を結成した。
谷本さんや浜井信三市長も要請を受け、発起人に加わった。谷本さんの著書「ヒロシマの十字架を抱いて」(50年)によれば、パーカーさんはオーストリアで育ち、ナチス・ドイツの侵略を逃れて渡米。第2次大戦後、戦災国に救援物資を送る活動をしていた。「ノーモア・ヒロシマズ運動」を「人類愛の叫び」と説き、賛同を募った。
48年8月6日、発起人それぞれの国で平和行事が計画された。浜井市長は3日に発した談話で、「世界平和運動が世界20ケ国以上にわたつて行われることは、われわれの念願が漸(ようや)く波紋を拡(ひろ)めつつある一証拠」と歓迎。6日の式典で読み上げた平和宣言でも、スローガンに同調し「再び第二の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念する」と訴えた。
米市長が賛意
市は、この平和宣言に平和都市建設の意欲を記したメッセージを同封して、世界160都市の市長に送った。9月上旬までに米国を中心に約30都市から返信があった。米サンフランシスコ市長は「おそろしいアトムのような破壊的なものが再び地球上に落ちないことを希望する」(8月22日付本紙)と賛意を示した。
原爆投下国の市民や首長に連帯の動きがある一方、6日の式典では占領軍の出席者が原爆投下を「懲罰」と正当化する一幕もあった。
英連邦軍司令官ロバートソン中将は会場で発したメッセージで「日本は裏切り的に英連邦諸国民と米国民を襲撃し、非常な痛苦を与えた」と指摘。「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばならない」と述べた。
式典には、英連邦の一員、オーストラリアの国会議員団一行8人も出席。浜井市長が中将の通訳に聞いた話によれば、メッセージは直前に加筆され、占領軍が日本人を「甘やかし過ぎ」とみる議員への配慮とみられた(67年の著書「原爆市長」)。
議員団の出席は、日本が民主化するかどうかを現地で確かめる一環だったという。旧日本軍の加害や、日本が新たに掲げる「平和国家」の本気度に、海外から厳しい視線も注がれていた。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月5日朝刊掲載)