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[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月6日 被爆半年 人口減著しく

 被爆から半年となった1946年2月6日。中国新聞は1面に「けふ原子爆弾落ちて半年」の見出しで、広島市内の地図に地区ごとの被爆前後の人口を示した「対比図」を載せた。爆心地に近い中島や本川(いずれも現中区)で著しく減少した様子を図示した。

 45年6月30日時点の「米穀通帳登録人員」と、46年1月1日時点の調査データを33地区別に比べた。爆心地から1キロ以内に入る本川は、5237人が2%半ばの129人に激減。同2キロ以内はほとんどの建物が全壊全焼しており、袋町や大手町、広瀬、神崎(いずれも現中区)も減少ぶりが際立った。

 中島は9196人から約4分の1の2364人となった。爆心地に近く広島有数の繁華街だった中島本町など現在の平和記念公園一帯は壊滅したが、より南方の吉島側も地区に含まれている。

 一方、周辺部で大きな被害を免れ、人口が増えた地域もあった。原爆投下直後に多くの負傷者が運ばれた似島(現南区)は1765人から1916人に。西部の己斐地区(現西区)は7780人が8786人となった。

 2面では街の再建の様子を伝えている。住宅問題は「最大の悩み」とし、住宅営団の約千戸に加え、市民の手で約5千戸が建設されていた。

 被爆当時28歳だった空博行さん(87年死去)は、大工としてバラックの建設や建物の片付けを請け負った。「昔の姿には戻らんだろう、と思うほど破壊された広島に、ポツリ、ポツリとだが家が建ち始め、しだいに廃虚が姿を変え始めた」(78年10月28日付本紙)。もともとカメラが趣味で、つち音をきっかけに46年4月、街中を写した。

 深刻な食糧難のため、法外な値段でも頼らざるを得なかった、闇市にも変化が訪れた。2月に広島県警察部による取り締まりが始まり、2月6日付本紙は「明朗な自由市場へと徐々にではあるが移行しつつある」と伝えた。(山本真帆)

(2025年2月6日朝刊掲載)

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