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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1948年8月9日 21歳の死 「体だるし」絶えた日記

 1948年8月9日。広島で原爆に遭った木村一男さんが、21歳で亡くなった。被爆後、次第に体調を崩し、ひどい貧血に襲われていた。広島工業専門学校(現広島大工学部)の機械科で学び、研究者を志していたが、夢を断ち切られた。

高熱や下痢に

 1年生だった45年8月6日、爆心地から約2・1キロの千田町(現中区)の校舎で被爆。背中にガラスが刺さり、左手をやけどした。急性放射線障害の白血球減少や出血の症状が出て亡くなる人が相次ぎ、自身も高熱や下痢に苦しんだ。日記をつけ自らを奮い立たせた。

 「俺は絶対に死なない。俺が亡くなったら、老い行く母父を誰が養うか」(9月1日)

 家族ではすでに、広島県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年生だった妹幹代さん=当時(13)=が命を落としていた。自宅のあった今の廿日市市から広島市中心部の建物疎開作業に出て、熱線に全身を焼かれた。

 「六年生女子の走る様をみて、幹ちゃんではないかと涙が出る」(10月15日)。被爆2カ月後、自宅近くの学校の運動会を見た木村さんは、たまらない思いを日記につづった。悲しみを抱きながら、授業を再開した広島工専に復学した。

 新年度が始まった46年春は、科学者の伝記を読み、勉強への意欲を一層膨らませた。「『キューリ夫人』の偉大さ。『野口英世』の偉大さ。がんばらねばならぬ」。友人が多く、文学青年でもあったという。

 ただ、「復興に従って人々の頭からは、あの凄愴(せいそう)は薄れてゆく。亡くなった幹代達の学徒はどこの宙で眺めてゐるやら。あの純潔な少年少女の悲劇も時代と共に薄れてゆく」(46年4月17日)。焼け跡に少しずつ建物が増えても、妹たち幾多の死者を思い続けた。

「ばか‼ばか」

 大学進学を目指していた自身も次第に体調が悪化。48年1月は「体が次第に弱ってゆく」(20日)「勉学さっぱりすすまず。腹痛」(21日)。しまいには自分を責めた。「学校へゆく雑沓(ざっとう)が体にこたえる。全く不愉快極まりない。運動不足が根本原因なのであらう。ファイト全くなし。ばか‼ばか」(31日)

 4月23日にも「終日体だるし」と書き、その数日後に日記は途絶えた。2015年に本紙の取材に証言した妹の故松野妙子さんによれば、医師から余命宣告を受け、「何度も『死にたくない』と言っていた」という。

 死亡時の診断は、粟粒(ぞくりゅう)結核だった。放射線の影響による白血病やがんの増加などの「後障害」は今のように知られてはいなかったが、「兄は体調が優れないのは、原爆の影響だと考えていた」(妙子さんの証言)。

 亡くなった8月9日は、米軍による長崎への原爆投下からちょうど3年だった。長崎市では初の「文化祭」(現平和祈念式典)が営まれ、市民代表による平和宣言は「ノーモア・ナガサキを力強く標ぼうし、広く世界に宣明せん」と訴えた。広島と同様に、あまたの命が奪われ、被害者の心身の苦しみが続いていた。(編集委員・水川恭輔)

(2025年2月6日朝刊掲載)

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