[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1948年10月13日 ヘレン・ケラーさん「平和の街」へ復興願う
25年2月7日
1948年10月13日。米国の福祉活動家、ヘレン・ケラーさん(68年に87歳で死去)が広島市を訪れた。幼い頃の病気の影響で聴覚と視力を失いながら、家庭教師たちの支えで言葉を覚え、世界各国で障害者福祉を説いていた。その一環で、市内にも訪れた37年以来11年ぶりに来日した。
海外著名人の被爆地訪問の先駆け。楠瀬常猪知事は前日に「世紀の偉人であり、また米国の国賓的存在(略)喜びを200万県民とともにしたい」と歓迎メッセージを出し、社会福祉に理解を深めるよう呼びかけた。
出迎えに謝意
当日は、広島駅前で千人以上が出迎え。ケラーさんは秘書で通訳のトムソンさんと手を結んで特設の歓迎台に上がると、「皆様(みなさま)の歓迎に感激、くださった美しい花束の友情は私をこよなく力づける」(14日付本紙)と謝意を表した。
今の平和記念公園にあった平和広場で、市戦災死没者供養塔に花束をささげた。市役所では浜井信三市長から原爆の犠牲者数や建物被害の説明を受け、「驚きの色をみせて頭を横にふる」(14日付「夕刊ひろしま」)。
浜井市長たちから贈られた「原爆記念品の焼瓦」をなでると、被爆当時に思いをはせるように深刻な表情を浮かべたという。「広島は世界に光る平和の街になって下さい」(15日付本紙)との願いを残した。
ただ、ケラーさんも願った「平和の街」の建設はこの頃、動きが停滞していた。市の復興都市計画は46年度に決まり、柱に「平和記念公園」の整備も盛り込まれていたが、財源の見通しが立っていなかった。
国に実現請願
既存施設も、復旧は不十分だった。48年10月10日付の夕刊ひろしまは、市内の小学校のバラック校舎の写真を載せた記事でこう問いかけた。「いつまで可愛(かわい)い子供の教育をこのような薄汚いバラック建ての中に封じ込めて置こうとするのか」
被爆後、税収も激減。自主財源に乏しい市単独の都市復興は限界があった。一方で戦災都市は全国にあり、国からは広島にだけ多額の補助を出すのは困難とされた。このため平和都市としての市の復興を「国家的事業」とし、国が実現に努めるよう請願に動いた。
市は49年2月、請願書を作成。世界平和への貢献になるとして、平和都市の建設を訴えた。この月、浜井市長や任都栗司市議会議長は請願書を携えて上京。県選出の国会議員たちに趣旨を説明する中で、議員立法が効果的だという提案があった。
法案の起草を、広島市出身で参院議事部長だった寺光忠さんが依頼された。広島高(現広島大)で学び、被爆約3カ月後の市内も見ていた。「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」。1条でそううたう「広島平和記念都市建設法」が実現へと動き出した。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月7日朝刊掲載)
海外著名人の被爆地訪問の先駆け。楠瀬常猪知事は前日に「世紀の偉人であり、また米国の国賓的存在(略)喜びを200万県民とともにしたい」と歓迎メッセージを出し、社会福祉に理解を深めるよう呼びかけた。
出迎えに謝意
当日は、広島駅前で千人以上が出迎え。ケラーさんは秘書で通訳のトムソンさんと手を結んで特設の歓迎台に上がると、「皆様(みなさま)の歓迎に感激、くださった美しい花束の友情は私をこよなく力づける」(14日付本紙)と謝意を表した。
今の平和記念公園にあった平和広場で、市戦災死没者供養塔に花束をささげた。市役所では浜井信三市長から原爆の犠牲者数や建物被害の説明を受け、「驚きの色をみせて頭を横にふる」(14日付「夕刊ひろしま」)。
浜井市長たちから贈られた「原爆記念品の焼瓦」をなでると、被爆当時に思いをはせるように深刻な表情を浮かべたという。「広島は世界に光る平和の街になって下さい」(15日付本紙)との願いを残した。
ただ、ケラーさんも願った「平和の街」の建設はこの頃、動きが停滞していた。市の復興都市計画は46年度に決まり、柱に「平和記念公園」の整備も盛り込まれていたが、財源の見通しが立っていなかった。
国に実現請願
既存施設も、復旧は不十分だった。48年10月10日付の夕刊ひろしまは、市内の小学校のバラック校舎の写真を載せた記事でこう問いかけた。「いつまで可愛(かわい)い子供の教育をこのような薄汚いバラック建ての中に封じ込めて置こうとするのか」
被爆後、税収も激減。自主財源に乏しい市単独の都市復興は限界があった。一方で戦災都市は全国にあり、国からは広島にだけ多額の補助を出すのは困難とされた。このため平和都市としての市の復興を「国家的事業」とし、国が実現に努めるよう請願に動いた。
市は49年2月、請願書を作成。世界平和への貢献になるとして、平和都市の建設を訴えた。この月、浜井市長や任都栗司市議会議長は請願書を携えて上京。県選出の国会議員たちに趣旨を説明する中で、議員立法が効果的だという提案があった。
法案の起草を、広島市出身で参院議事部長だった寺光忠さんが依頼された。広島高(現広島大)で学び、被爆約3カ月後の市内も見ていた。「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」。1条でそううたう「広島平和記念都市建設法」が実現へと動き出した。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月7日朝刊掲載)