[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 2月 原爆で失明 暗闇の育児
25年2月8日
1946年2月。原爆で両目を失明した当時26歳の福地トメ子さんは、生後間もない次女美津枝さんの子育てに苦闘していた。乳をふくませようと小さな唇を手で探ったが、うまくいかず、親子で泣く時も。見えないまな娘の顔は、手で触れて感じるしかなかった。
<br><br>
福地さんは妊娠5カ月の時、広島駅近くで被爆。爆風で飛んできたとみられるガラス片を両目に浴びた。直後から見えなくなり、見知らぬ男性に頼むなどして矢賀国民学校(現東区の矢賀小)に逃れ、家族と再会できた。
<br><br>
混乱の中で十分な治療を受けられず、入院できたのは3カ月後だった。場所は倉敷市の病院。ただ、費用がかさみ、出産も迫っていたため治らぬまま年末に退院。広島に帰る貨物列車で母に「一緒に死なんか」と問われたが、泣きながら断った。おなかの子を殺すわけにはいかなかった。
<br><br>
46年1月17日、草津本町(現西区)の自宅で美津枝さんを産んだ。大変なのはそれからだった。手探りで授乳し、おしめを替え、入浴させた。かまどで米を炊く時に髪を焦がしたことも。夫たち家族と家事を分担し、親類や隣人の助けも借りた。48年に三女、50年に次男を出産。生計を支えるため32歳で盲学校に入り、マッサージの仕事をして5児を育て上げた。
<br><br>
原爆資料館が2006年に制作した証言映像でトメ子さんは「原爆という言葉を言うのも嫌です。見たいです。明るさが」と訴えている。結婚して寺田姓になった現在79歳の美津枝さん(安佐南区)は「花嫁姿を母に見せたかった。結婚式の時、『きれいだよ』と角隠しをポンポンと2度触ったのが忘れられません」と唇をかむ。
<br><br>
トメ子さんは13年に94歳で亡くなった。火葬後、美津枝さんは母の光を奪ったガラス片は溶けてなくなったと思うと職員から聞いた。「ガラスが出てきたら恨みの一つでも言おうと思っていたが、母は暗黒から明るい世界に戻ったと確信した。胸のつかえが取れました」(山下美波)
<br><br>
(2025年2月8日朝刊掲載)