[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1949年5月20日 平和公園コンペ ドーム保存 シンボルに
25年2月8日
1949年5月20日。広島市は、爆心地近くに整備する平和記念公園の設計コンペで、募集を始めた。要項に「世界の輿望(よぼう)に応へる為(ため)に我が広島市は世界平和記念都市として再建する」と記し、それにふさわしい設計案を募った。
国家的事業に
直前の10日に、特別法の「広島平和記念都市建設法」が衆院で、翌11日に参院で可決。市の平和記念都市としての再建を国家的事業に位置づけ、国や地方公共団体などの関係機関が「できる限りの援助」(3条)をしなければならないと定めた。財源確保という市の懸案解決が期待された。
法案は、広島市出身で参院議事部長の寺光忠さんが起草に携わり、国会議員によって発議された。憲法95条の特別法に関する規定に基づき、7月に広島市民を対象にした住民投票で過半数の同意を得られれば、公布、施行の運びとなった。
市が平和記念都市建設法に基づく復興の柱として計画していた平和記念公園の整備予定地は、元安川と本川に挟まれた三角州北部の中島地区と、元安川の東岸の一部。計約12万3750平方メートルの「原爆の中心地」(募集要項)だった。
外観から最適
この場所への公園整備は、46年度に市の復興都市計画で決まった。広島県都市計画課長として立案に携わった竹重貞蔵さんは手記で、「原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていた」と回顧する。それには、大破した県産業奨励館(現原爆ドーム)を「外観から最適」と考え、残骸が残る元安川東岸もエリアに含めたという。
ただ当時、国は戦災都市に危険な状態で残る建物の取り壊しを進めていた。奨励館も対象で予算査定を終えていたが、「私は独断でこのドームの取壊しを中止させ、予算を返上した」(手記)と明かす。
市が平和記念公園の設計案を募った際も保存方針は維持され、募集要項では「適当修理の上存置する予定」とした。要項のパンフレットの表紙も、奨励館の絵が大きく描かれた。
また、市は公園内への「平和記念館」の整備も打ち出し、設計の条件に課した。主な機能は「世界平和運動の各種国際会議を招集出来る集合場」と「原子爆弾災害の一切の資料を蒐集(しゅうしゅう)して全世界平和愛好者の参考及(およ)び研究に供する陳列室」。ほかに、平和の祈りを告げる鐘をつるす塔も盛り込んだ。
7月20日まで設計案を募り、145点の応募があった。建築家の岸田日出刀さんはじめ専門家や地元の行政、経済界の代表者9人が審査委員を務め、被爆4年の8月6日に結果を発表した。
1等には、建築家の丹下健三さんのグループの案が選ばれた。奨励館をシンボルに、アーチの塔、平和記念館を結ぶ南北の「軸線」を中心としたデザイン。原爆ドーム、原爆慰霊碑、原爆資料館本館が一直線上に並ぶ今の平和記念公園の設計思想がこの時、生み出された。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月8日朝刊掲載)
国家的事業に
直前の10日に、特別法の「広島平和記念都市建設法」が衆院で、翌11日に参院で可決。市の平和記念都市としての再建を国家的事業に位置づけ、国や地方公共団体などの関係機関が「できる限りの援助」(3条)をしなければならないと定めた。財源確保という市の懸案解決が期待された。
法案は、広島市出身で参院議事部長の寺光忠さんが起草に携わり、国会議員によって発議された。憲法95条の特別法に関する規定に基づき、7月に広島市民を対象にした住民投票で過半数の同意を得られれば、公布、施行の運びとなった。
市が平和記念都市建設法に基づく復興の柱として計画していた平和記念公園の整備予定地は、元安川と本川に挟まれた三角州北部の中島地区と、元安川の東岸の一部。計約12万3750平方メートルの「原爆の中心地」(募集要項)だった。
外観から最適
この場所への公園整備は、46年度に市の復興都市計画で決まった。広島県都市計画課長として立案に携わった竹重貞蔵さんは手記で、「原爆の惨状を後世に伝えるものを考えていた」と回顧する。それには、大破した県産業奨励館(現原爆ドーム)を「外観から最適」と考え、残骸が残る元安川東岸もエリアに含めたという。
ただ当時、国は戦災都市に危険な状態で残る建物の取り壊しを進めていた。奨励館も対象で予算査定を終えていたが、「私は独断でこのドームの取壊しを中止させ、予算を返上した」(手記)と明かす。
市が平和記念公園の設計案を募った際も保存方針は維持され、募集要項では「適当修理の上存置する予定」とした。要項のパンフレットの表紙も、奨励館の絵が大きく描かれた。
また、市は公園内への「平和記念館」の整備も打ち出し、設計の条件に課した。主な機能は「世界平和運動の各種国際会議を招集出来る集合場」と「原子爆弾災害の一切の資料を蒐集(しゅうしゅう)して全世界平和愛好者の参考及(およ)び研究に供する陳列室」。ほかに、平和の祈りを告げる鐘をつるす塔も盛り込んだ。
7月20日まで設計案を募り、145点の応募があった。建築家の岸田日出刀さんはじめ専門家や地元の行政、経済界の代表者9人が審査委員を務め、被爆4年の8月6日に結果を発表した。
1等には、建築家の丹下健三さんのグループの案が選ばれた。奨励館をシンボルに、アーチの塔、平和記念館を結ぶ南北の「軸線」を中心としたデザイン。原爆ドーム、原爆慰霊碑、原爆資料館本館が一直線上に並ぶ今の平和記念公園の設計思想がこの時、生み出された。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月8日朝刊掲載)