[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1949年9月25日 原爆資料陳列室の開設地質学者が収集に尽力
25年2月12日
1949年9月25日。広島市は基町(現中区)の中央公民館の一室に原爆参考資料陳列室を開いた。30日付本紙記事によれば、展示品は「岩石、かわら、コンクリート、植物類六、七百点のほか被害統計表など」。原爆の熱線による「燃焼熔解(ようかい)上の変化」などが分かる実物が並べられた。
「おそらく部屋は小さくても世界随一の収集室だと関係者は誇っている」(記事)。開設の中心的役割を果たしたのは、広島文理科大(現広島大)の地質学者だった長岡省吾さん(73年に71歳で死去)だ。
翌日に広島へ
50年の手記「廢墟(はいきょ)に佇(た)つ」によると、米軍が広島に原爆を投下した45年8月6日は、地質調査で今の山口県上関町にいた。広島方面できのこ雲を目撃。現大竹市の自宅に戻った後、壊滅した広島市へ7日に入った。
地質学者として、岩石に残る猛烈な熱の痕跡を見逃さなかった。灯籠に座ったとたん針で刺したような痛みを感じ、「よく見ると、花崗(かこう)岩の表面が熔けている(略)普通ではない。特種な爆弾だと感じた」(手記)。
爆心地から約1・4キロの大学を訪れると、校舎が焼き尽くされ、人生を懸けて集めた鉱物はぼろぼろになっていた。被爆した石や瓦を拾い集める日々が始まった。
六女の中山叔子(としこ)さん(91)=福岡県=は、父が連日リュックをいっぱいにして帰宅する姿を記憶する。「家族には理由が分からず、がらくたばかり集めて何がしたいのかと思っていました」。持ち帰った品は日に日に増え、自宅の廊下を歩くのもままならなくなった。
長岡さんは48年から市嘱託となって資料の収集整理に尽力。市が50年に公民館そばに木造平屋の原爆記念館を設けた後、55年に今の原爆資料館を開くと、初代館長に就いた。中山さんは「信念を貫いた父の偉大さが今は分かる」と話す。
核実験報じる
一方で市は49年9月、米国のトルーマン大統領に戦争防止への取り組みを求めようと、10日余りで集めた10万7854人分の署名をまとめ、米文芸誌主筆のノーマン・カズンズさんに提出を託した。だが、同月、核時代が新たな危機に入ったことが表面化する。
9月25日付本紙は「ソ連領内で原子爆発」と1面に大見出しを載せた。ソ連の初の核実験に関するトルーマン氏の特別声明(23日)の配信記事だった。後に8月29日実施と分かる。
トルーマン氏も4月、共産主義陣営と対立が深まる中、民主党の会合で述べていた。「世界の福祉と民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、私は再び原子爆弾の使用を決定することをためらわないだろう」
広島、長崎への原爆投下から4年。全米科学者連盟の現在の推定によれば、49年の米国の核保有数は170に達した。被爆地と米国を含む海外の市民に「ノーモア」の連帯が芽生える中で、相互に核を持つ東西両陣営の冷戦が深まる。そして50年、朝鮮半島で戦争が始まる。(下高充生)
(2025年2月12日朝刊掲載)
「おそらく部屋は小さくても世界随一の収集室だと関係者は誇っている」(記事)。開設の中心的役割を果たしたのは、広島文理科大(現広島大)の地質学者だった長岡省吾さん(73年に71歳で死去)だ。
翌日に広島へ
50年の手記「廢墟(はいきょ)に佇(た)つ」によると、米軍が広島に原爆を投下した45年8月6日は、地質調査で今の山口県上関町にいた。広島方面できのこ雲を目撃。現大竹市の自宅に戻った後、壊滅した広島市へ7日に入った。
地質学者として、岩石に残る猛烈な熱の痕跡を見逃さなかった。灯籠に座ったとたん針で刺したような痛みを感じ、「よく見ると、花崗(かこう)岩の表面が熔けている(略)普通ではない。特種な爆弾だと感じた」(手記)。
爆心地から約1・4キロの大学を訪れると、校舎が焼き尽くされ、人生を懸けて集めた鉱物はぼろぼろになっていた。被爆した石や瓦を拾い集める日々が始まった。
六女の中山叔子(としこ)さん(91)=福岡県=は、父が連日リュックをいっぱいにして帰宅する姿を記憶する。「家族には理由が分からず、がらくたばかり集めて何がしたいのかと思っていました」。持ち帰った品は日に日に増え、自宅の廊下を歩くのもままならなくなった。
長岡さんは48年から市嘱託となって資料の収集整理に尽力。市が50年に公民館そばに木造平屋の原爆記念館を設けた後、55年に今の原爆資料館を開くと、初代館長に就いた。中山さんは「信念を貫いた父の偉大さが今は分かる」と話す。
核実験報じる
一方で市は49年9月、米国のトルーマン大統領に戦争防止への取り組みを求めようと、10日余りで集めた10万7854人分の署名をまとめ、米文芸誌主筆のノーマン・カズンズさんに提出を託した。だが、同月、核時代が新たな危機に入ったことが表面化する。
9月25日付本紙は「ソ連領内で原子爆発」と1面に大見出しを載せた。ソ連の初の核実験に関するトルーマン氏の特別声明(23日)の配信記事だった。後に8月29日実施と分かる。
トルーマン氏も4月、共産主義陣営と対立が深まる中、民主党の会合で述べていた。「世界の福祉と民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、私は再び原子爆弾の使用を決定することをためらわないだろう」
広島、長崎への原爆投下から4年。全米科学者連盟の現在の推定によれば、49年の米国の核保有数は170に達した。被爆地と米国を含む海外の市民に「ノーモア」の連帯が芽生える中で、相互に核を持つ東西両陣営の冷戦が深まる。そして50年、朝鮮半島で戦争が始まる。(下高充生)
(2025年2月12日朝刊掲載)