[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月11日 広島―呉間で駅伝大会
25年2月11日
1946年2月11日。「広島・呉間駅伝競走」が開かれた。31年に始まり、広島―福山間を駆ける「中国駅伝」の代替大会。「復興の祭典」として一般と学生の部に計20チームの170人が参加し、たすきをつないだ。
主催した中国新聞社の広島市上流川町(現中区)の本社と、広島県立呉第一高等女学校(現三津田高)を往復する56キロのコース。「戦死、被爆死した名選手も多く、まだ復員出来ないでいる人たちもいて、完全なオーダーは組めていない。練習不足、体力不足はどのチームも同じ事情だった」(88年刊の中国駅伝記念誌「熱走譜」)。
それでも、選手や市民が待ち望んだ駅伝とあって当日午前9時半の開会式を前に応援団が続々と集まり、選手たちの力走に「熱狂の渦を描いた」(2月13日付本紙)。一般は安芸体協が3時間33分20秒で、学生は広島一中(現国泰寺高)が3時間39分55秒で制した。
学生の3位に入った旧制崇徳中の4区走者で、区間賞を獲得したのが池之子英雄さん(2015年に84歳で死去)。長男英利さん(68)=佐伯区=は「父は自宅から峠を越えて市場に食材などを卸す道中で、足腰を鍛えたようです」と振り返る。東京の大学からスカウトされたが、長兄を原爆で亡くしており、家計を支えるために卒業後、競技はやめたという。
中国駅伝は、箱根駅伝に次ぐ歴史があったが、前年の45年は中止された。8月に原爆で広島が焦土となり、9月の枕崎台風で、大会運営に重要な県内の交通網も被害を受ける中、広島―呉間での開催にこぎつけた。
47年も代替大会で、48年に中国駅伝が復活。多くの名選手を生んだ。51年のボストン・マラソンで日本人として初優勝し、「原爆ボーイに栄冠」と話題になった田中茂樹さん(22年に91歳で死去)は、庄原高と統合後の比婆西高時代に2度の優勝に貢献。中国駅伝は95年に幕を閉じ、全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)に引き継がれた。(山本真帆)
(2025年2月11日朝刊掲載)
主催した中国新聞社の広島市上流川町(現中区)の本社と、広島県立呉第一高等女学校(現三津田高)を往復する56キロのコース。「戦死、被爆死した名選手も多く、まだ復員出来ないでいる人たちもいて、完全なオーダーは組めていない。練習不足、体力不足はどのチームも同じ事情だった」(88年刊の中国駅伝記念誌「熱走譜」)。
それでも、選手や市民が待ち望んだ駅伝とあって当日午前9時半の開会式を前に応援団が続々と集まり、選手たちの力走に「熱狂の渦を描いた」(2月13日付本紙)。一般は安芸体協が3時間33分20秒で、学生は広島一中(現国泰寺高)が3時間39分55秒で制した。
学生の3位に入った旧制崇徳中の4区走者で、区間賞を獲得したのが池之子英雄さん(2015年に84歳で死去)。長男英利さん(68)=佐伯区=は「父は自宅から峠を越えて市場に食材などを卸す道中で、足腰を鍛えたようです」と振り返る。東京の大学からスカウトされたが、長兄を原爆で亡くしており、家計を支えるために卒業後、競技はやめたという。
中国駅伝は、箱根駅伝に次ぐ歴史があったが、前年の45年は中止された。8月に原爆で広島が焦土となり、9月の枕崎台風で、大会運営に重要な県内の交通網も被害を受ける中、広島―呉間での開催にこぎつけた。
47年も代替大会で、48年に中国駅伝が復活。多くの名選手を生んだ。51年のボストン・マラソンで日本人として初優勝し、「原爆ボーイに栄冠」と話題になった田中茂樹さん(22年に91歳で死去)は、庄原高と統合後の比婆西高時代に2度の優勝に貢献。中国駅伝は95年に幕を閉じ、全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)に引き継がれた。(山本真帆)
(2025年2月11日朝刊掲載)