[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1949年8月 平和住宅の建設 シュモーさん 学生と汗
25年2月11日
1949年8月。復興途上の広島市内に、大工仕事に励む米国人と日本の学生の姿があった。率いるのは、米国の森林学者フロイド・シュモーさん(2001年に105歳で死去)。米軍の原爆投下で家を失った人たちのために家を建てようと、米国や東京の仲間たち10人で市内を訪れた。
「望みがとうとうかなって非常にうれしい、ヒロシマ・ハウスを建てるまで一生懸命に働きたい」。本紙は4日に市内に入ったシュモーさんの活動にかける思いを伝え、広島の学生30人余りも加わると報じた。
日系人を支援
娘婿が日系人で、戦時中から日系人の支援活動に取り組んでいた。米国による原爆投下に心を痛め、48年に初めて広島市を訪れ、十分な住まいすら得られない市民生活を見た。「広島の家」を建てるための寄付金4300ドルを米国で集め、くぎやガラスなどの資材を準備して再び来日した。
「非常に柔らかい人柄だが、平和への強い思いを持っていた」。妻富子さん(95)=米シアトル=も結婚前、「広島の家」の建設活動に加わった。大学生だった48年、都内での奉仕団体の集会で本人から計画を聞いた。自身も東京大空襲で家を焼かれており、奉仕の意義を身をもって感じた。
シュモーさんたち一行は広島流川教会(現中区)で寝起きし、日中は皆実町(現南区)で作業した。大工の指導を受けながら材木をかつぎ、くぎを打った。米国からは若い小学校教師や牧師が参加した。
「暑い広島の夏に若い男女が志を一つにして行動し、国籍も関係なく良き隣人となれた」と富子さん。10月に長屋「皆実平和住宅」が完成し、市へ引き渡した。2棟が立つ敷地内に庭も造り、石灯籠に「祈平和」と刻んだ。
15棟21戸完成
シュモーさんたちは、その後も江波地区(現中区)などで活動。世界各地から3万ドル超の寄付金が集まり、53年までに15棟21戸の住宅や集会所を建てた。作業現場にはいつしか、「家を建てることによって お互いを理解し合い 平和が訪れますように」と英語の立て札が掲げられた。
49年8月には、米ニューヨークで発行する文芸誌の主筆ノーマン・カズンズさん(90年に75歳で死去)も広島を訪れた。前年秋に渡米した被爆者の谷本清牧師と知り合い、トルーマン大統領に戦争防止の取り組みを求める市の「平和請願署名運動」に協力していた。
広島戦災児育成所を訪れ、帰国後の9月、「4年後のヒロシマ」の題でルポを発表。「一般市民、特に子どもたちの不幸な姿にわれわれは道徳的責任を持っている」「原爆孤児をわれわれの子供として考えよう」と訴え、「モラル・アドプション(道徳養子)」を提唱した。
大きな反響を呼び、「事務所に多くの手紙が殺到して孤児の世話を申出ている」(9月29日付本紙)。米国市民が養育費などを送って原爆孤児の生活を支援する「精神養子運動」へつながっていく。(山下美波)
(2025年2月11日朝刊掲載)
「望みがとうとうかなって非常にうれしい、ヒロシマ・ハウスを建てるまで一生懸命に働きたい」。本紙は4日に市内に入ったシュモーさんの活動にかける思いを伝え、広島の学生30人余りも加わると報じた。
日系人を支援
娘婿が日系人で、戦時中から日系人の支援活動に取り組んでいた。米国による原爆投下に心を痛め、48年に初めて広島市を訪れ、十分な住まいすら得られない市民生活を見た。「広島の家」を建てるための寄付金4300ドルを米国で集め、くぎやガラスなどの資材を準備して再び来日した。
「非常に柔らかい人柄だが、平和への強い思いを持っていた」。妻富子さん(95)=米シアトル=も結婚前、「広島の家」の建設活動に加わった。大学生だった48年、都内での奉仕団体の集会で本人から計画を聞いた。自身も東京大空襲で家を焼かれており、奉仕の意義を身をもって感じた。
シュモーさんたち一行は広島流川教会(現中区)で寝起きし、日中は皆実町(現南区)で作業した。大工の指導を受けながら材木をかつぎ、くぎを打った。米国からは若い小学校教師や牧師が参加した。
「暑い広島の夏に若い男女が志を一つにして行動し、国籍も関係なく良き隣人となれた」と富子さん。10月に長屋「皆実平和住宅」が完成し、市へ引き渡した。2棟が立つ敷地内に庭も造り、石灯籠に「祈平和」と刻んだ。
15棟21戸完成
シュモーさんたちは、その後も江波地区(現中区)などで活動。世界各地から3万ドル超の寄付金が集まり、53年までに15棟21戸の住宅や集会所を建てた。作業現場にはいつしか、「家を建てることによって お互いを理解し合い 平和が訪れますように」と英語の立て札が掲げられた。
49年8月には、米ニューヨークで発行する文芸誌の主筆ノーマン・カズンズさん(90年に75歳で死去)も広島を訪れた。前年秋に渡米した被爆者の谷本清牧師と知り合い、トルーマン大統領に戦争防止の取り組みを求める市の「平和請願署名運動」に協力していた。
広島戦災児育成所を訪れ、帰国後の9月、「4年後のヒロシマ」の題でルポを発表。「一般市民、特に子どもたちの不幸な姿にわれわれは道徳的責任を持っている」「原爆孤児をわれわれの子供として考えよう」と訴え、「モラル・アドプション(道徳養子)」を提唱した。
大きな反響を呼び、「事務所に多くの手紙が殺到して孤児の世話を申出ている」(9月29日付本紙)。米国市民が養育費などを送って原爆孤児の生活を支援する「精神養子運動」へつながっていく。(山下美波)
(2025年2月11日朝刊掲載)