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社説・コラム

寄稿 原爆を生き延びた文化の命脈 加納千里子 広島で育まれた豊嶋家の能楽 戦地に赴く同僚へ舞披露

 それは30年ほど前、益田市戸田町にお住まいの開業医、岡崎澄衛氏(2008年、96歳で死去)からの1本の電話が始まりだった。

 私にとって詩壇の先達だった岡崎氏は、地域の小中学校の校医も務め、自殺者や変死者の検視、声なき声にも真摯(しんし)に向き合った誠実な医師である。多忙を極める中、宝生流の謡曲をうたい、浄瑠璃を語り、古里の文化発展に貢献。日本現代詩人会会員、日本詩人クラブ会員、詩誌「日本未来派」「石見詩人」の重鎮でもあった。

 電話の内容は、詩誌にどうしても書いておきたい人物がいる。消息を長い間捜していたが、広島の原爆で亡くなったと伝え聞いた。ついては、ある慰霊碑に豊嶋文二君の名が刻まれているかどうか確かめてほしい、というものだった。

 当時広島市内に住んでいた私は翌日、中区基町の本川土手にある「廣島陸軍病院原爆慰霊碑」を訪れ、合祀(ごうし)された病院関係者の「軍人」の項に「豊島文二」の名を確認。傍らに本院の門柱が保存され、被爆エノキの2世が青々と命をつないでいることを報告した。

 しばらくの後、岡崎氏は豊嶋氏との思い出を一篇(ぺん)の詩「被爆榎(えのき)」に昇華し、詩誌「石見詩人」98号(1994年10月刊)に寄せた。

 岡崎氏は1944年、陸軍の軍医として中国大陸に赴いた。目の当たりにした戦場の惨劇。肋骨(ろっこつ)に食い込んだ砲弾の破片。多くの命を救えなかった罪の意識…。それらは戦後、地域医療に一身をささげる元となり、詩の根源ともなった。

 大陸に赴く前日、広島陸軍病院の関係者による合同演芸会が催された。その席で岡崎氏の謡曲に合わせ、能「船弁慶」を豪快に舞ったのが豊嶋氏だった。被爆したのも陸軍病院内だったと聞く。

 その日の光景を、80代となっていた岡崎氏は、詩人としてどうしても書き残しておかねばと思われたのだ。詩「被爆榎」は、「豊島文二君が、舞台の上で縦横無尽に振りまわす大長刀(なぎなた)の閃めき」を鮮やかによみがえらせるとともに、「あの悪魔たちのたまゆらの閃光とキノコ雲の下に、数十万の人間地獄の中に投げこまれた」彼への追悼の思いを刻んでいる。

 出会いとは不思議なものだ。先頃、私が寄稿している季刊誌「Grandeひろしま」に、京都在住で広島にも講師として通う金剛流能楽師、豊嶋晃嗣(こうじ)氏を紹介する文が載った。晃嗣氏は驚くことに、文二氏の兄、豊氏の孫に当たる方であった。

 豊嶋家は、厳島神社(廿日市市宮島)の大工職で、江戸時代に広島藩主浅野家お抱えの能楽師となった。昭和初期、文二氏を末弟とする6人兄弟はそろって能楽師となっていた。6人のうち3人が戦争を生き延び、やはり京都に出た長兄の弥左衛門(12代)は広島県出身の能役者として初の人間国宝ともなった。

 私は、2度にわたる引っ越しの際も岡崎氏の手紙と「被爆榎」の載った「石見詩人」はどうしても手放すことができなかった。それらの資料を思いがけず広島で晃嗣氏にご覧いただくことがかなったのである。

 それは私にとって、長く抱えてきた心の重みが解けるような、そして、あの原爆ですら断ち得なかった広島の文化の命脈を確かめる体験だった。

かのう・ちりこ
 1945年京都府生まれ。はがき絵「千里の会」主宰、巨木を訪ねる会代表。廿日市市在住。

(2025年2月13日朝刊掲載)

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