天風録 『高木彬子さん』
25年2月14日
昭和の劇作家、高田保が随筆集「ブラリひょうたん」に引っ越しの逸話を残している。転居先の押し入れに紙包みが見える。開くと、障子紙に手縫いの雑巾が何枚か、畳まれていた▲本来、きれいに掃除をした上で引き渡さねばならぬところ、こちらも引っ越しのゴタゴタゆえに行き届きませず…。そんな気持ちが読み取れ、心が震えたという。雑巾に込める心配りは、今となっては昔のことなのか▲たかが雑巾と思えば、それまでだろう。今や、出来合いの物が100円ショップにも並ぶ。「されど雑巾」派の一人が旅立った。焼け野原だった被爆地広島で、パン製造販売アンデルセングループを夫と起こした高木彬子(たかきあきこ)さん。99歳▲創業の心を若手社員に語り伝えるため、私財を投じ、研修所をこしらえた。入所の条件が「雑巾1枚を持参すること」だった。床を磨き、心や人生も磨く。「行いは小さく、志は大きく」。当たり前を積み上げる。その象徴が雑巾だったに違いない▲量産化に道を開いた冷凍パン製造の特許公開といい、客がトングでパンを選べるセルフ方式の導入といい、高木さんたちは食の風景を創ってきた。「食卓に幸せを運ぶ」志は引き継がれていく。
(2025年2月14日朝刊掲載)
(2025年2月14日朝刊掲載)