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[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月中旬 傷癒やし再び看護の道

 1946年2月中旬。広島市の広島赤十字病院(現中区)に併設されていた救護看護婦養成所の1年生、浅野智恵子さん(2020年に92歳で死去)が被爆の傷を癒やして病院に戻った。10回生として入学4カ月後に原爆に遭い、負傷者の救護に当たった世代。203人いた同級生の多くは復学できないでいた。

 「部屋のドアが毛布に変わり、便所は仮設のままの古巣でした」。浅野さんは同期の手記集「『ヒロシマ』四ヶ月の絆」(03年刊)に記す。教科書は焼け、ノートにする紙もない。先輩の後に付いて、実務と勉強に同時並行で取り組む日が続いた。病院の玄関前に置かれていた乳児に、ミルクを飲ませたこともあった。

 設備も十分でない中、空き缶に包帯を入れて熱し、殺菌するなど「五感で知ったことを知識として耳から入れて確かめ、自分のものにするしかありません」。病院関係者の手記集「いのちの塔」(92年刊)で振り返る。

 爆心地から約1・5キロにあった病院は鉄筋で、倒壊や焼失を免れ、負傷者が殺到した。浅野さんは原爆投下時、赤痢を疑われて病院内で隔離、療養中に被爆。足や手を負傷しながら、仮設便所の消毒などを担った。

 約3週間後に帰省の許可が下りると、広島県甲山町(現世羅町)の実家で、けがを治療し、白血球の減少と闘った。回復すると、父の「初心に立ち返ってみては」との助言に背中を押され、再び看護の道に。当時の看護婦養成所婦長だった絹谷オシヱさん(06年に97歳で死去)から、帰校を求める手紙も受け取っていた。

 被爆当時在籍していた生徒408人のうち22人が犠牲になった。10回生は47年、入学時の約3分の1の70人で卒業。浅野さんはその後、養護教諭を長く務めた。級友との別れを忘れることはなく、退職した89年、生徒がくれた花束を平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑と、広島赤十字・原爆病院内の慰霊碑にささげた。(山本真帆)

(2025年2月15日朝刊掲載)

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