『今を読む』 広島経済大経営学部教授 細井謙一(ほそいけんいち) 戦後80年とお好み焼き
25年2月15日
ソウルフードの本当の意味は
73・8%―。広島市経済観光局が調査した、広島を訪れた観光客がお好み焼きを食べた比率だ(2024年版広島市観光概況)。7割を超える人が広島に来ればお好み焼きを食べるという。ただお好み焼きに関しては意外と謎も多い。広島のお好み焼きが、どういう食べ物なのか一度整理してみることが重要だろう。
広島のお好み焼きはソウルフードだとよく言われる。おいしいから、物心ついた時から食べてきたからなどソウルフードと呼ばれる理由はさまざまだろうが、被爆都市広島の平和と復興のシンボルだからという側面も見逃せない。
その典型的な逸話が「戦争寡婦説」。広島のお好み焼き店は戦争で夫を亡くした女性が一家を支えるために始めたという説だ。「ちゃん」が付く店名が多いのは復員してきた夫がお店を見つけやすいように自分の愛称を店名にしたもの、ということになっている。
しかし、この説が本当だと信じるに足る証拠を寡聞にして知らない。筆者はお好み焼き産業の歴史について調査しているが、戦後間もない時期に戦争寡婦がお好み焼き店を始めたという事例は見当たらない。「ちゃん」が付くお店の多くは男性店主が自分や家族の愛称を付けたものが多い。女性店主は確かに多いが、人当たりがいいからとか、家計の足しにするため副業的にといった理由で夫が妻に店を任せているケースがほとんどだ。では、なぜこのような説が生まれてくるのか。
終戦直後の広島にはまだお好み焼きは登場しない。オタフクソースの社史「ふくがたり」によれば1946年に広島駅闇市で「戦前の一銭洋食のようなもの」を売る屋台が登場したとされる。当時の一銭洋食はクレープ状の生地であり合わせの具材を包んだものだ。客が持ち込んだものを焼き賃を取って焼いたり、具材がなければ生地だけ焼いて食べたりしたという証言もある。たとえ生地だけでも食べるものがあること、しかも温かいものを食べられるということがうれしかったのだそうだ。
背景には小麦粉が比較的入手しやすかったことが考えられる。46年に米国からの救援物資(いわゆるララ物資)として小麦粉が提供される。その後、わが国の小麦粉輸入は48年に64万トン、49年には179万トンへと急増する。
時を同じくして49年に広島平和都市建設法が公布され、復興需要が本格化する。翌50年には朝鮮戦争が勃発し、いわゆる朝鮮特需で景気が回復することになる。一銭洋食がお好み焼きと呼ばれるようになるのもこの頃で、拡幅された中央通り沿いに数軒の屋台が登場する。お好み焼きが復興を支えたというイメージは、この頃の記憶がつくり出したものだろう。
この屋台群は53年には東新天地公園へと広がり、54年には西新天地公園(現在のアリスガーデン)へ移転、50軒ほどの屋台村を形成するようになる。この屋台村も立ち退きとなり、65年に屋台村の店舗の一部が「お好み村」と呼ばれる施設を造る。
さて、お好み村の成立は、お好み焼き産業の大きな転換点となった。個々の店舗というよりも、お好み村全体が食べていけるだけの大口の需要が必要になる。
そこで目を付けたのが観光客の誘致である。75年には山陽新幹線が開通し、カープの初優勝もあって広島への観光需要の増加が期待された。特に注目されたのが修学旅行の誘致である。原爆資料館で被爆の実相に触れ、お好み村でお好み焼きを食べ、復興の結果こんなにおいしいものが食べられるようになったことに思いを致す。この時お好み焼きは、まさに平和と復興のシンボルになる。
結局、寡婦説はこうしたお好み焼きの成立の歴史と平和への思いが相まって生み出されたものだと言えるだろう。戦後の復興の過程で生まれた食べ物であること、女性店主が多かったこと、観光客誘致の過程で平和と復興のシンボルとして位置付けられたことなどが要因だ。虚構なのかもしれないが虚構として切り捨てられない思いがあるのもまた事実だろう。
お好み焼きが困難な時代に生まれ、それを乗り越える原動力となったこと、その結果、現在の平和で不死鳥のような復興を成し遂げた広島があること。この説は、そんなさまざまな記憶と思いがつくり出してきたものなのだろう。多くの観光客が広島のお好み焼きを食べる時、お好み焼きの背景にある広島の歴史や平和への思いを感じ取ってくれていると信じたい。
1968年新潟県三条市生まれ。明治大商学部卒、神戸大大学院経営学研究科博士課程(後期)単位取得退学。95年広島経済大着任、2019年同大地域経済研究所長、23年経営学部長。一般財団法人お好み焼きアカデミー理事も務め、年に約300枚を食べ歩く。
(2025年2月15日朝刊掲載)