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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1950年11月1日 増える白血病

弱音吐かぬ父 急な別れ

 1950年11月1日。広島市の皆実高3年だった西岡誠吾さん(93)=廿日市市=は1限目の授業途中、席に来た担任教員から小さな声で伝えられた。お父さんが亡くなったとお母さんから電話があった―。突然の知らせに、入院先の呉市内の病院に急いだ。

 両親と3人兄弟の5人家族。被爆前は広島市西白島町(現中区)に住み、父恵三郎さんが運送業を営んでいた。「努力すれば必ず結果が出る、が口癖。絶対弱音を吐かない明治の男でした」

 45年8月6日、父は爆心地から約1・2キロの泉邸(現縮景園)前で被爆し、爆風で倒れた松の枝で頭から出血。傷口を布で押さえて家に戻り、下敷きになった母を助けた。広島県立広島工業学校(皆実高を経て現県立広島工業高)1年だった西岡さんも学校で熱線を受け、顔にやけどを負った。

体中 紫の斑点

 家も仕事も失った一家は、母の実家がある大長村(現呉市)に身を寄せた。父は借金をして家を建て、ミカン農家を始めた。西岡さんは45年12月に学校に戻り、広島市内の下宿先から通った。父は焼けて切り裂かれた学生服の縫い目を解いて型紙を作り、新しい服を仕立ててくれた。

 西岡さんは長期休暇で帰省すると農作業を手伝った。ただ、50年の夏休みは父の様子がいつもと違った。畑を広げるのに一生懸命だったのに「だるい」と言って寝転んでいた。体中に紫の斑点が見えた。

 大学を目指す西岡さんは勉強に励んでいたが、夏休みの終わり、父は厳しい表情を浮かべながらこう言った。「農家をする元気がなくなったから、進学を諦めて就職してくれ」。初めて聞く父の弱音だった。

 訃報は、その約2カ月後。父は呉市内の広島県立医科大付属医院(現広島大病院)に入院して3日後に洗面所へ行く際に倒れ、そのまま帰らぬ人になった。47歳だった。

 西岡さんが病院に駆け付けると、ベッドに横たわる父の顔は白い布で覆われていた。そばで泣く母が「お父さんが死んだんよ」と布を取った。「普段眠っている時のような姿でした。死の実感は湧かなかった」

 父は白血球が異常に増えていた。医師は、死亡原因を「慢性骨髄性白血病」、発病年月日を「昭和20年8月/日(推定)」と死亡診断書に書き入れた。

影響知られず

 西岡さんは、父の願いに沿って就職活動に臨んだ。大手繊維メーカーの内定を得て、冬休みに帰省した。「『ただいま』と帰っても父はいなくて…。その時です、父は死んだんだと初めて実感が湧いたのは」。仏壇に向かい、就職内定を報告した。「健在なら喜んでくれたはずだったのに」。今も無念は消えない。

 現在、原爆放射線の影響による白血病の増加は被爆の約2年後から発生し、約6~8年後の間にピークに達したとされる。西岡さんが父を失った占領期の被爆5年ごろ、その影響が今のように知られていない中で、いくつもの家族が「原爆症」で引き裂かれていた。(編集委員・水川恭輔)

(2025年2月18日朝刊掲載)

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