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[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月19日 生き残った姉も亡くす

 1946年2月19日。当時11歳の川本省三さん(2022年に88歳で死去)が、広島で被爆した五つ上の姉時江さんを亡くした。すでに両親ときょうだいの計5人を原爆に奪われ、2人で戦後を生き抜こうとしていたところだった。

 時江さんは旧国鉄に勤めていて、広島駅(現広島市南区)付近で被爆。塩屋町(現中区)の自宅では母たち3人が犠牲になり、父と姉の行方は分からないままだった。45年8月9日、袋町国民学校(現中区の袋町小)6年生で神杉村(現三次市)に学童疎開していた省三さんを迎えに行き、「2人きりになったのに離れるのは嫌」と、駅近くの建物の一室を借りて一緒に暮らし始めた。

 だが、時江さんは46年2月に入って体調を崩して動けなくなり、1週間ほどで逝った。脱毛や出血が止まらないなどの症状があったといい、省三さんは後に「白血病だったのではないか」と疑った。広島市の被爆体験伝承者で広島大医学部6年の井上つぐみさん(24)=安芸区=によると「独りぼっちになった不安と、あまりのショックで涙も出なかったそうです」。

 省三さんは姉の死後、伴村(現安佐南区)にいた伯父のつてで、村長が営むしょうゆ店に住み込みで働くことになった。23歳の時、結婚を申し込んだ相手の親に「あの時広島におったのとは結婚させられん」と断られ、再び独りで生きていく決意をした。

 ただ、真面目に働く気にはなれず、生活は荒れた。30代前半で生きる意味を見失い、所持金640円を手に、死に場所を探して岡山へ。そこで、うどん屋の「住み込み店員募集」の張り紙を見つけ、母の「諦めるな。やればできる」の言葉を思い出して再起。50歳で食品会社の社長になった。

 70歳で広島に戻ると、原爆孤児の実態が知られていないことに心を痛め、自らの体験を語り始めた。石ころをしゃぶるほど飢え、犯罪に絡んで命を落とした子どもたちを思い続けた。原爆資料館収録の証言映像で、こう訴える。「被爆しなかったけど、生きられなかった子がいる。本当の戦争の姿を知ってもらいたい」  (山本真帆)

(2025年2月19日朝刊掲載)

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