[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1950年12月 比治山にABCC 放射線影響調査 不満も
25年2月19日
1950年12月。米軍兵舎でよく使われたかまぼこ形の建物が広島市の比治山(現南区)に姿を現していた。米軍が投下した原爆の放射線の人体影響を調べる原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の新施設。診察室や検査室などを備えていた。
翌年 長崎にも
12月9日付本紙は、施設がほぼ完成し翌51年2月に本格稼働の予定と報じた。所長のカール・テスマー米軍中佐は「広島市の医学的な活動に重要なつながりをもつもので親しみと誇りを感じていただくよう希望する」(記事)と呼びかけた。
ABCCは、原爆の影響の長期的調査が必要だとする米大統領令(46年11月)に基づき、米科学アカデミーに設けられた現地調査機関。市内には、47年3月に広島赤十字病院(現中区)の一部を借りて開設し、翌年には長崎市にも拠点を構えた。
背景に、新兵器の人体影響に強い関心を寄せる米軍の意向があった。米国は原爆投下翌月の45年9月から被爆地に調査団を派遣。米軍主導の日米合同調査団も編成し、日本側が持つ資料を提出させて分析した。調査を踏まえ、米海軍長官がトルーマン大統領に長期的研究を勧告し、承認を得て大統領令が出された。
47年4月に広島市長に就いた浜井信三さんは当初、被爆者の治療につながる研究は日本だけでは財政的に困難と考え「研究調査機関ができることは喜ばしい」と受け止めた(67年の著書「原爆市長」)。ABCCは血液学的な調査をし、日本人の医師たちも勤めた。
一方、被爆した市民に「治療せず」への不満も広がった。47年に赤十字病院に入院していた被爆者の吉川清さんは採血され、被爆状況を聞かれた。「治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった」(81年の著書「『原爆一号』といわれて」)。
「米に恐怖感」
その後、ABCCは48年に宇品町(現南区)の旧凱旋(がいせん)館に移転。新生児の遺伝的影響や子どもの発育状態の調査などにも幅を広げた。13歳で被爆し、父を白血病で亡くした西岡誠吾さん(93)=廿日市市=も高校生の時、旧凱旋館での検査を求められた。「戦争中は米国人は鬼と教えられ、恐怖感もありました」。体中を測定され、顔や左手のやけどの痕を写真に撮られたという。
比治山の新施設は49年7月に着工。戦前から公園があり、市は別の場所を提案したが、水害の懸念がないなどとしてABCCが比治山を望み、連合国軍総司令部(GHQ)も同調した。49年2月には市議会が賛成を決議していた。当初の運営資金は米原子力委員会が提供した。
ABCCはまた、50年の国勢調査の付帯調査として「全国原爆被爆生存者調査」を日本政府に求め、データを基に死因を追跡する「寿命調査」を始める。新施設でも市民の検査を続けた。
吉川さんは「日傭(やと)いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に一日つぶすことは深刻な生活問題であった」(「『原爆一号』といわれて」)と捉えた。占領期が終わると、治療を求める声が表面化する。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月19日朝刊掲載)
翌年 長崎にも
12月9日付本紙は、施設がほぼ完成し翌51年2月に本格稼働の予定と報じた。所長のカール・テスマー米軍中佐は「広島市の医学的な活動に重要なつながりをもつもので親しみと誇りを感じていただくよう希望する」(記事)と呼びかけた。
ABCCは、原爆の影響の長期的調査が必要だとする米大統領令(46年11月)に基づき、米科学アカデミーに設けられた現地調査機関。市内には、47年3月に広島赤十字病院(現中区)の一部を借りて開設し、翌年には長崎市にも拠点を構えた。
背景に、新兵器の人体影響に強い関心を寄せる米軍の意向があった。米国は原爆投下翌月の45年9月から被爆地に調査団を派遣。米軍主導の日米合同調査団も編成し、日本側が持つ資料を提出させて分析した。調査を踏まえ、米海軍長官がトルーマン大統領に長期的研究を勧告し、承認を得て大統領令が出された。
47年4月に広島市長に就いた浜井信三さんは当初、被爆者の治療につながる研究は日本だけでは財政的に困難と考え「研究調査機関ができることは喜ばしい」と受け止めた(67年の著書「原爆市長」)。ABCCは血液学的な調査をし、日本人の医師たちも勤めた。
一方、被爆した市民に「治療せず」への不満も広がった。47年に赤十字病院に入院していた被爆者の吉川清さんは採血され、被爆状況を聞かれた。「治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった」(81年の著書「『原爆一号』といわれて」)。
「米に恐怖感」
その後、ABCCは48年に宇品町(現南区)の旧凱旋(がいせん)館に移転。新生児の遺伝的影響や子どもの発育状態の調査などにも幅を広げた。13歳で被爆し、父を白血病で亡くした西岡誠吾さん(93)=廿日市市=も高校生の時、旧凱旋館での検査を求められた。「戦争中は米国人は鬼と教えられ、恐怖感もありました」。体中を測定され、顔や左手のやけどの痕を写真に撮られたという。
比治山の新施設は49年7月に着工。戦前から公園があり、市は別の場所を提案したが、水害の懸念がないなどとしてABCCが比治山を望み、連合国軍総司令部(GHQ)も同調した。49年2月には市議会が賛成を決議していた。当初の運営資金は米原子力委員会が提供した。
ABCCはまた、50年の国勢調査の付帯調査として「全国原爆被爆生存者調査」を日本政府に求め、データを基に死因を追跡する「寿命調査」を始める。新施設でも市民の検査を続けた。
吉川さんは「日傭(やと)いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に一日つぶすことは深刻な生活問題であった」(「『原爆一号』といわれて」)と捉えた。占領期が終わると、治療を求める声が表面化する。(編集委員・水川恭輔)
(2025年2月19日朝刊掲載)