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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1951年9月20日 原爆詩集発行 峠三吉の叫び 惨状刻む

 1951年9月20日。34歳の広島の詩人、峠三吉さんが「原爆詩集」を出した。初版はガリ版刷りの500部。巻頭で「原子爆弾により命を奪われた人」や「全世界の原子爆弾を憎悪する人々」たちにささげると記し、目次に続いて平仮名の「序」を収めた。

 「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」

 戦前から詩作をしていた峠さんは、爆心地から約3キロの広島市翠町(現南区)の自宅で被爆。翌46年にかけて花の露店や貸本屋を営み、47年に広島県社会課に就職すると、新たな憲法の普及運動に携わった。

ong>時代憂い急ぐong>

 片や地元の詩人や歌人たちと「反戦詩歌集」(50年)などを発行。初の個人詩集「原爆詩集」は気管支の病気で国立広島療養所(現東広島市)に入っていた51年、8月6日が近づく中で急いでまとめた。その思いを「あとがき」に著している。

 「詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく(略)力よわいことを恥じた。然(しか)しそれを感じながらも敢て出版しなければならぬ追つめられた時代であることを知れば、さらに時間をかけて他日の完璧を期することは許されないと思った」

 前年の50年6月に朝鮮戦争が勃発。1年が過ぎても戦火は続いていた。原爆詩集の20編には、50年の平和祭の中止を「武装と私服の警官に占領されたヒロシマ」と表した「一九五〇年の八月六日」などもあった。

 市立中央図書館に、原稿を託した詩人の壺井繁治さんから峠さんに届いた51年のはがき(7月24日付)が残る。東京の出版社に持ち込んだが断られ、「八月六日までに出すとすれば余裕がなく、そちらで大至急ガリ版ででも出して下さい」と伝えられていた。

ong>体験 生々しくong>

 発行は原爆の日を1カ月半過ぎたが、峠さんの「8月6日」からの体験が深く刻まれた。自宅近くにあった広島陸軍被服支廠(ししょう)の惨状を描いた「倉庫の記録」。負傷者が押し寄せた被爆直後を「骨を刺す異臭」「空地に積みあげた死屍」などと表した。被服支廠の倉庫に入った体験は「死臭濃し」などと日記にも書き留めていた。

 「詩にある通りです。皮膚の焼ける臭いや血の臭いは忘れられない」と切明千枝子さん(95)=安佐南区。大けがをして運び込まれた祖母の見舞いで、原爆投下当日の午後に被服支廠を訪れた。

 戦後、参加した学生たちの集まりで峠さんと親交を深める。「学生たちの議論が白熱してまとまらなくなると仲裁に入って、引き分けにしてくれていました。いつも穏やかな口調の人でした」

 峠さんは、占領が明けた後の52年9月には、子どもから大人までが原爆の体験や平和への願いを寄せた詩集「原子雲の下より」を編んだ。その翌年、肺葉手術中に36歳の若さで亡くなった。「原爆詩集」が生前出した唯一の個人詩集となった。(下高充生)

(2025年2月20日朝刊掲載)

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