[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1951年10月2日 「原爆の子」出版
25年2月21日
亡き父母 恋しさつづる
1951年10月2日。手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が刊行された。編者は当時広島大教育学部教授だった長田新さん(61年に75歳で死去)。「原子爆弾が人間の精神にどんな影響を与えたか」(序文)を子どもたちの体験から考え、平和教育にも生かそうと考えた。
学生たちと協力して広島市や近郊の学校から1175編を収集。手記105編を載せ、84編の一部を序文で引いている。
3時間かけて
全文掲載された一人、小島純也さん(85)=東京=は千田小(現中区)6年の時、宿題として鉛筆を握った。「やさしいお父さん、お母さんが、おられなくなってからというものは、不幸なものです」。一緒に住む叔母の目を気にしながら、台所の机で3時間かけてつづった。
原爆投下時は5歳。千田町(現中区)の自宅にいて命をつないだが、広島逓信局職員だった父正雄さん=当時(38)=は被爆翌月に亡くなった。実母は既に病死し、継母は被爆後に家を出た。祖父美夫さんも被爆死。残った祖母イスミさんも2年後に58歳で逝き、独りになると、小学3年時に叔父夫妻に引き取られた。
「今で言う虐待を受けていました」。叔父に殴られ、叔母から存在を否定される言葉を浴びた。冬もはだしにげたで登校し、下着は穴が開いたまま。鉛筆や消しゴムは学校で拾った。家に居づらく日が暮れるまで外で友人と遊んだり、1人で近所を歩いたりした。「他の家の笑い声が聞こえると、大きくなったらみんなで食事を囲む家庭を持ちたいと思いました」
手記の宿題が出たのは「毎日のように死にたいと思っていた頃」と振り返る。ただ、亡き父の顔が浮かぶとそんな気持ちは収まった。「ぼくがすることを、お父さん、お母さんが、みなみよってんだ、とおもって、なんでも、しよります」(手記)
案内状届かず
手記は出版前、雑誌に載った。担任から渡され、喜んで仏壇に供えたが、知らぬ間になくなっていた。「不幸という表現が気に入らなかったのでしょう」。出版の案内状も手元に届かず、「原爆の子」の本を約40年後に知った。
中学に進んでも放課後に叔母が営む花店を手伝い、繁華街を深夜まで売り歩いた。唯一の娯楽は50年に創設された広島カープのラジオ中継。選手を夢見て草野球に励んだが、道具は友人の借り物。テスト生の募集要件を満たせなかった。
その後、はんこ店で修業し、22歳で上京。31歳で結婚し、家族4人で囲む食卓に何よりも幸せを感じた。自宅にはジャズのCDがずらりと並ぶ。「ずっと米国が憎いのに皮肉にも米国の文化が生きる糧になりました」
今、手記を読み返すと当時を思い出し涙があふれる。11歳の自分は「お母さんや、お父さんを、もう一かいだけでもよいから、みたいのだが、もう二どと、ふたたび、みられないでしょう」と結んでいた。「早くあっちに行って両親に会いたいなと思うんです」
「原爆の子」は刊行当初から反響を呼び、翌年の52年に映画化された。ロングセラーとなり、英語をはじめ数多くの言語に翻訳されていった。(山下美波)
(2025年2月21日朝刊掲載)