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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1952年8月10日 原爆被害者の会結成

苦しい胸の内 語り合う

 1952年8月10日。「原爆被害者の会」の結成式が広島市の知恩会館(現中区)であり、被害者数十人が出席した。会則を決め、背中一面や腕にケロイドが残り「原爆一号」と呼ばれた吉川清さん、被爆した詩人の峠三吉さんたち5人が幹事に就いた。

運動の先駆け

 「被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あはせて再びこの様な惨事のくりかへされないよう平和のために努力することを目的とします」(会則)。会は被害者救援と原爆反対を訴える被爆者運動の広島での先駆けとなった。

 結成の動きは6月に起きた。51年に「原爆傷害者更生会」をつくっていた吉川さんが、峠さんや一緒に詩集の編集に携わる広島大生の川手健さんたちに会い、新たな被害者組織を発足する話をした。より強く、主体的に救援を求め、平和を訴えるためだった。

 52年4月に占領統治が終わり、6月に市内で映画「原爆の子」の撮影が開始。吉川さんは「新しい息吹のようなものを感じはじめていた」(81年の著書「『原爆一号』といわれて」)。7月、映画の監督の新藤兼人さんたちを招いて懇談会を開くと、参加者で結成の機運が一層高まり、会員の募集に乗り出した。

 平和記念公園整備地(現中区)で平和記念式典が営まれた8月6日は街頭に机を置き、申し込みを受け付けた。吉川さんは原爆ドームそばで営む土産物店に看板を掲げた。「原爆被害者の方は声をかけてください」―。たまたま近くを通って目にした一人が、当時25歳の阿部静子さん(98)=南区。「それで吉川さんと知り合い、顔を出すようになりました」

 45年8月6日、中野村(現安芸区)から建物疎開作業に出て顔や手を焼かれた。12月に戦地から復員する夫三郎さんは優しく支える。しかし、周囲から浴びせられる心ない言葉が胸をえぐった。

 「『あんなにケガしている人をまだ嫁さんに置くんか』。私の家を横目で見てそう陰口をたたく人もいました」。顔の傷ゆえに近所の子どもに「赤鬼」と言われたことも。地元で被爆を打ち明けたり、語り合ったりする機会はなかった。

 だから、会の案内のはがきが届くのが楽しみだった。「そこに行けば慰められました。被爆した人が集まって、苦しい、悲しい胸の内を聞いたり、聞いてもらったり」

翌年 会員300人

 会は吉川さんの店に事務所を置き、会員数は53年4月には約300人に増えた。相談で多いのは、被爆による傷や「原爆症」の治療。会は52年10月、原爆を投下した米国の大統領令に基づく原爆傷害調査委員会(ABCC、現南区の放射線影響研究所)に、無料治療機関の設置を申し入れる。だが、目的が違うとしてABCCが応じなかったため、調査への非協力の方針を打ち出す。

 国家予算による無料治療の陳情、市や県への困窮者への特別措置の要求…。会のさまざまな事業計画に「手記の募集」もあった。阿部さんにも声がかかる。(編集委員・水川恭輔、下高充生)

(2025年2月25日朝刊掲載)

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