×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1952年8月6日 慰霊碑の除幕

「繰返さぬ」人類の誓い

 占領期が終わり、最初の原爆の日となった1952年8月6日。広島市の平和記念公園整備地(現中区)で平和記念式典があり、原爆で親を失った子どもたちが原爆慰霊碑を除幕した。内部の石室には碑文が刻まれ、原爆死没者名簿が納められた。

反省糧に行動

 式典は市と広島平和協会が共催し、約千人が参列した。浜井信三市長が初めて碑前で平和宣言。「思えば人間の犯しうる過失の余りにも深刻なのに戦りつせずにはいられない」と振り返り、「私たち」は反省を糧に行動すると誓った。御影石製の石室には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と彫られていた。

 碑文は、英文学者で広島大の雑賀忠義教授が考案した。7月、教え子で当時市長室職員の藤本千万太さんが相談に訪れ、手記によると「祈りと誓いの言葉を刻みたい」という浜井市長の考えを巡り話し合った。2時間ほどたつと、雑賀さんがつぶやいた。「しずかにお眠り下さい。過ちは繰返しませんから」。翌日、碑文が完成した。

 浜井市長は戦争をしないという人類史的な観点での誓いと捉え、「いい碑文だと思った」(67年の著書「原爆市長」)。科学を殺りくに用いるのは人間の大きな過ちであり、「碑の前にぬかずくすべての人びとが、その人類の一員として、過失の責任の一端をにない、犠牲者に詫(わ)びること」(同)が世界平和へ必要な反省や決意につながると考えた。

碑文を疑問視

 雑賀さんは碑文の揮毫(きごう)を引き受け、「言葉も書体も市民感情を表すようにつとめた」(7月23日付本紙)。英訳にも携わり、日本語にはない主語に「we」を当てた。

 ただ、ほどなくして碑文への疑問の声が出た。11月3日、市内での国際会議出席に合わせて慰霊碑を訪れたインドの法学者パール氏は、主語が日本人を指すと受け止め「原爆を落としたのは日本人でない」と述べた。判事の一人を務めた極東国際軍事裁判(東京裁判、48年判決)は日本の戦争指導者たちを裁く一方、米軍の原爆投下は不問に付していた。

 パール氏は「落とした者の手はまだ清められていない」とも発言し、本紙が翌日の朝刊1面で報じた。面会した浜井市長は、「残虐な行為を是認」する気持ちを感じて疑問を抱くパール氏に、碑文は「戦争は絶対にしないという意味」と説明した(「原爆市長」)。

 慰霊碑の完成とともに52年の式典で奉納された原爆死没者名簿を巡っては、市は前年の51年春から、死没者の名前の調査を続けていた。

 遺族たちに死没者の名前を書いてもらう調査票を全国の都道府県に発送。市内の学校などに団体用の用紙も送った。しかし一自治体が主導する調査は困難を極め、名簿を納める約1カ月前になっても「相当数もれているとみられる」(52年7月4日付本紙)として至急の協力を呼びかけた。

 納められた名簿は5万7902人分。市が現在示す犠牲者数は45年12月末までだけで推計14万人(誤差±1万人)。被害の実態とは、程遠かった。(編集委員・水川恭輔)

(2025年2月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ