[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1952年7月 原爆犠牲者の遺骨 市や近郊で発掘相次ぐ
25年2月23日
1952年7月。米軍による原爆投下の犠牲者の遺骨が、広島市や近郊で相次ぎ発掘された。4日は、住民からの情報を基に、被爆直後に多くの負傷者が運ばれた金輪島(現南区)で市が29体を発見。5日付本紙に、痛ましい現地の遺骨の写真が載った。
混乱の中 仮葬
占領期が4月に終わり、原爆投下批判につながる報道を制限したプレスコードもなくなっていた。混乱の中で仮葬されるなどした遺骨の発見報道は反響を呼び、さらなる確認につながった。10日には本紙に、船舶関連会社を営む広島県坂町の北野勝三郎さん(80年に82歳で死去)から情報が寄せられた。坂町も埋まっている場所がある―。
町にはかつて、被爆直後の救護を指揮した陸軍船舶司令部の部隊がおり、負傷者が次々に運び込まれた。北野さんは救護に当たり、息絶えた人の仮葬に関わった兵士の話も聞いていた。
情報を寄せた日、鯛尾、小只谷の両地区に本紙記者を案内。鯛尾では、遺体が埋められた場所は周りの畑に比べて約30センチ陥没しているといい、「死体の肉がとれ白骨となったためでしょう」(11日付の本紙記事)と説明した。
小只谷は山の中腹。一時は風雨や崖崩れで露出した遺体を犬がくわえるような状況だった。47年に工員を連れて23体を掘り起こし、葬ったという。「一帯に約80体土葬したらしく、なお40体くらいが散在している」と発掘の必要性を伝えた。11日付記事では、坂町長が広島市による遺骨の発掘、引き取りを望んでいた。
私費で供養塔
町内では、その後も発掘が進み、本紙に残る小只谷の写真には60人以上の頭蓋骨が一枚に納まる。北野さんは翌53年の8月、市内を望む高台(現坂町横浜西)に高さ約2メートルの供養塔を私費で建てた。「あんな悲惨な目に遭うて肉親もわからずに亡くなられたのに、粗末になっては…」(本紙の取材への証言)との思いからだった。
供養塔は今も受け継がれ、住民でつくる「横浜戸主会」は傷んだ箇所を2020年に補修した。近くでマリーナやレストランを営む北野さんの孫の勝二郎さん(74)は、先祖の墓参りに合わせて訪れる。「先人を供養しなさいというのは代々の教え。手を合わせることしかできないが、継承していきたいと思います」
ほかにも、市中心部にあった広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)跡で42体、二葉山山麓(現東区)で推定52体…。金輪島で見つかった1体は中学生の名前が墨で書かれた木片が遺骨に付着しており、7年の時を経て母親の元に帰ったが、大半は身元や遺族が分からなかった。
8月5日、今の平和記念公園の市戦災死没者供養塔で納骨法会が営まれた。合祀(ごうし)する遺骨は506体を数えた。(下高充生)
(2025年2月23日朝刊掲載)
混乱の中 仮葬
占領期が4月に終わり、原爆投下批判につながる報道を制限したプレスコードもなくなっていた。混乱の中で仮葬されるなどした遺骨の発見報道は反響を呼び、さらなる確認につながった。10日には本紙に、船舶関連会社を営む広島県坂町の北野勝三郎さん(80年に82歳で死去)から情報が寄せられた。坂町も埋まっている場所がある―。
町にはかつて、被爆直後の救護を指揮した陸軍船舶司令部の部隊がおり、負傷者が次々に運び込まれた。北野さんは救護に当たり、息絶えた人の仮葬に関わった兵士の話も聞いていた。
情報を寄せた日、鯛尾、小只谷の両地区に本紙記者を案内。鯛尾では、遺体が埋められた場所は周りの畑に比べて約30センチ陥没しているといい、「死体の肉がとれ白骨となったためでしょう」(11日付の本紙記事)と説明した。
小只谷は山の中腹。一時は風雨や崖崩れで露出した遺体を犬がくわえるような状況だった。47年に工員を連れて23体を掘り起こし、葬ったという。「一帯に約80体土葬したらしく、なお40体くらいが散在している」と発掘の必要性を伝えた。11日付記事では、坂町長が広島市による遺骨の発掘、引き取りを望んでいた。
私費で供養塔
町内では、その後も発掘が進み、本紙に残る小只谷の写真には60人以上の頭蓋骨が一枚に納まる。北野さんは翌53年の8月、市内を望む高台(現坂町横浜西)に高さ約2メートルの供養塔を私費で建てた。「あんな悲惨な目に遭うて肉親もわからずに亡くなられたのに、粗末になっては…」(本紙の取材への証言)との思いからだった。
供養塔は今も受け継がれ、住民でつくる「横浜戸主会」は傷んだ箇所を2020年に補修した。近くでマリーナやレストランを営む北野さんの孫の勝二郎さん(74)は、先祖の墓参りに合わせて訪れる。「先人を供養しなさいというのは代々の教え。手を合わせることしかできないが、継承していきたいと思います」
ほかにも、市中心部にあった広島女子高等師範学校付属山中高等女学校(現広島大付属福山中高)跡で42体、二葉山山麓(現東区)で推定52体…。金輪島で見つかった1体は中学生の名前が墨で書かれた木片が遺骨に付着しており、7年の時を経て母親の元に帰ったが、大半は身元や遺族が分からなかった。
8月5日、今の平和記念公園の市戦災死没者供養塔で納骨法会が営まれた。合祀(ごうし)する遺骨は506体を数えた。(下高充生)
(2025年2月23日朝刊掲載)