ヒロシマ遡上の旅 川越厚著 父の沈黙 追体験で知る
25年2月23日
在宅ホスピス医として高名な著者にとってのヒロシマとは何か。例えば「正視できない死体」という章。医学生時代から解剖を通じて人を「もの」とみなす訓練を重ねてきたが、ホスピス医になって遺体といえど「ひと」とみる感覚に変わる。丸木位里は地獄の亡者を描けても幽霊のなりをした人に感情を移入すると筆が進まなくなった。「丸木画伯の気持ちがよくわかる」と著者。
書名にある遡上(そじょう)の旅とは2023年8月から1年間、全5回延べ17日間にわたって父川越研三の「出ヒロシマ記」を、著者が住む山梨県北杜市から出かけて追体験した旅。プロテスタントの家庭に育ち、カトリックの広島学院中高に学んだ著者は旧約聖書の「出エジプト記」―モーセが導いたユダヤ人の脱出行―に重ねたのだ。
研三は爆心地から1・3キロの広島女学院で陸軍配属将校として被爆。泉邸(現縮景園)へ市民を避難させた後、著者の祖母たちを連れて三入(現広島市安佐北区)の家族の疎開先まで2日がかりでたどり着く。そして軍務に戻るべく取って返した。その時、父と祖母は死を覚悟しながらもお互いの癒やし人となる。置かれた立場は絶望的でも父のスピリチュアルな状態は決して救いのないものではない、と旅を終えて著者は確信した。
著者は多くの証言も探る。関西学院大神学部を出て広島女学院に軍人として来た研三がどう振る舞ったか、かねて気になっていた。官憲の監視下にあった当時の女学院。K軍曹の執拗(しつよう)な追及を受けたと記す女学院百年史の証言を読んでひるんだが、研三ではなかった。森重昭の「原爆で死んだ米兵秘史」を読み、英語の堪能な研三が中国憲兵隊司令部で尋問の末、捕虜を虐待したのではと危惧したが、これも杞憂(きゆう)に終わる。亡き父を知る旅の途上の一こまだった。
研三への接し方に後悔の念もにじませる。「普通のひとが、ようけ死んどった」としか語らぬ人を「平和の戦士」に仕立てようとした若き日があった。今は沈黙の意味を考えながら孫と対話を楽しんでもいる。(佐田尾信作・客員編集委員)
本の泉社・2100円
(2025年2月23日朝刊掲載)
書名にある遡上(そじょう)の旅とは2023年8月から1年間、全5回延べ17日間にわたって父川越研三の「出ヒロシマ記」を、著者が住む山梨県北杜市から出かけて追体験した旅。プロテスタントの家庭に育ち、カトリックの広島学院中高に学んだ著者は旧約聖書の「出エジプト記」―モーセが導いたユダヤ人の脱出行―に重ねたのだ。
研三は爆心地から1・3キロの広島女学院で陸軍配属将校として被爆。泉邸(現縮景園)へ市民を避難させた後、著者の祖母たちを連れて三入(現広島市安佐北区)の家族の疎開先まで2日がかりでたどり着く。そして軍務に戻るべく取って返した。その時、父と祖母は死を覚悟しながらもお互いの癒やし人となる。置かれた立場は絶望的でも父のスピリチュアルな状態は決して救いのないものではない、と旅を終えて著者は確信した。
著者は多くの証言も探る。関西学院大神学部を出て広島女学院に軍人として来た研三がどう振る舞ったか、かねて気になっていた。官憲の監視下にあった当時の女学院。K軍曹の執拗(しつよう)な追及を受けたと記す女学院百年史の証言を読んでひるんだが、研三ではなかった。森重昭の「原爆で死んだ米兵秘史」を読み、英語の堪能な研三が中国憲兵隊司令部で尋問の末、捕虜を虐待したのではと危惧したが、これも杞憂(きゆう)に終わる。亡き父を知る旅の途上の一こまだった。
研三への接し方に後悔の念もにじませる。「普通のひとが、ようけ死んどった」としか語らぬ人を「平和の戦士」に仕立てようとした若き日があった。今は沈黙の意味を考えながら孫と対話を楽しんでもいる。(佐田尾信作・客員編集委員)
本の泉社・2100円
(2025年2月23日朝刊掲載)