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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1952年6月 原爆映画の撮影

被害描写 影響恐れた国

 1952年6月。広島市で映画「原爆の子」の撮影が始まった。前年に出た同名の手記集が原作で、近代映画協会が製作を主導。今の佐伯区出身の新藤兼人さん(2012年に100歳で死去)が監督、脚本を担った。

 新藤さんは7月6日付中国新聞に「岸辺に瓦礫(がれき)の山が積まれていたりして昔を知るものにとっては悲しいことである」と寄稿した。地元の子どもが出演し、原爆ドーム周辺もロケ地になった。

 占領期には連合国軍総司令部(GHQ)によりプレスコードが出され、映画も検閲を受けていたが、撮影に先立つ4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効。日本は独立国として主権を回復していた。「原爆の子」は原爆被害を描く劇映画として広島市内で撮られた最初期の作品となった。

 原爆で家族を亡くした教員を乙羽信子さんが演じ、被爆7年後の広島で幼稚園の教え子を訪ねるストーリーを通じ、原爆の爪痕を伝える。被爆7年の8月6日、市内で全国に先駆け公開された。

「憤りの詩だ」

 試写会で鑑賞した浜井信三市長は座談会で「広島の市民が世界の人たちに向かって言いたいと思っていたことを映画で言ってもらって感謝に堪えません」と述べ、新藤さんは「この映画は憤りの詩だと思っています」と話した。その後、全国公開され反響が広がった。

 占領の終わりとともに、さまざまに原爆被害が伝えられた。写真誌「アサヒグラフ」の8月6日号は原爆記録写真を特集し、増刷を重ねた。53年には被爆翌月に設けられた文部省学術研究会議の「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の報告集も刊行された。

 一方、政府は占領期を引きずり、米国への配慮に腐心。映画会社の代表者の選考で、53年春のフランス・カンヌ国際映画祭の出品作品に日本から「原爆の子」と、画家丸木位里さん、俊さん夫妻の「原爆の図」を取り上げた同名の短編映画が選ばれると如実になる。

 外務省が在フランス大使館に送った公電が東京の外交史料館に残る。米国は2作品の映画祭出品を「好まざる旨の意向」(2月10日付)であり、在日米国大使館から「何とか阻止する方法なきや」(16日付)と迫られたと説明。外務省も「製作意図、国際的影響、政治的意図をもってする宣伝への悪用等につき、相当問題がある」(同)と考えていると伝えた。

 外務省は世論の反発を恐れて出品阻止は見送るが、より注目された「原爆の子」の受賞可能性がある場合、「辞退したい旨」を主催者側に内々に伝えるよう指示した(4月14日付)。ただ在フランス大使館は介入が逆に世界の注目をひくと考え、見送った。

撤回は極秘に

 一方、「原爆の図」は同大使館が「さらに原爆関係の作品を上映することは、いたずらに米国側及(およ)び映画祭事務局を刺激する」(以下、大使館の6月9日付報告書)と考慮。「極秘にこれを上映しないよう取り計らわれることには、日本の業界として反対がないと思う旨」を申し出て、対米関係を気にする事務局側も応じた。

 「短篇(たんぺん)であり、撤回は極秘に行われたので、当地では非上映は問題とされなかった」と外務省に報告された。(編集委員・水川恭輔)

(2025年2月22日朝刊掲載)

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