[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1953年6月 「原爆に生きて」出版
25年2月26日
心身の傷 苦しみを公に
1953年6月。原爆被害者の手記27編を収めた「原爆に生きて」が刊行された。作家の山代巴さんや、「原爆被害者の会」事務局長の川手健さんたちが編さん。癒えない被害者の心身の傷や、国の援護もなく社会で置き去りにされたに等しい苦境を公にした。
「世の中も段々と平和になり、豊かになり、美しくなるのに、私は終世なおらぬ身の傷を思い、世の人々からとり残されたような寂しさで一ぱいです」。ある手記では、「えり子」さんが深まる孤立感を訴える。
「匿名ならば」
この「えり子」さんは当時26歳の阿部静子さん(98)=広島市南区。52年夏に幹事の吉川清さんと知り合って会に加わると、山代さんから手記を書いてほしいと何度も頼まれた。「初めは断りましたが、『匿名ならば』と」。友人への手紙という形で載った。
18歳で被爆し、顔や手に深い傷を負いながらも翌年の46年に長男、49年に次男を出産し、夫に支えられて育児に励んでいた。しかし、周囲から心ない言葉が聞こえた。
「やくざ風の若者三人、私を見て、『おい、あんな(彼女)でも子を生んだんで』と大きな声で話し合い、からからと笑いました。其(そ)の時の私の気持をおさっし下さい。人通りの少ない道を選んで、人と会うことを避けて、悲しい心で歩く私は人に見られるだけでも悲しいのに、涙が出て出て泣き泣き土手を歩いたものです」(「えり子」さんの手紙)
夜、家族が寝た後に、泣きながら布団の中で書き進めた。子どもが病弱なのを阿部さんの被爆に当てつけるしゅうとめとのあつれきも吐露。「誰かに聞いてほしい思いもありました」。ただ、届いた本は自分の部分を読むと、すぐに風呂釜で燃やした。「見られたら大変なので」
山代さんたちは生活や病気に苦しむ原爆被害者を訪ね歩いて執筆の依頼や代筆をし、胸の奥底にある心情を言葉で刻んだ。広島赤十字病院(現中区)で治療を受けていた40代後半の恵京(えきょう)吉郎さんは実名で、「白血病と闘う」を寄せた。
爆心地から約2キロの自宅で被爆後、母が住む今の安芸高田市に帰郷。51年6月、農作業中に突然めまいがし、慢性骨髄性白血病と診断された。長男が給料から入院と治療の費用を出したが、とても足りず借金をした。「原爆症で苦しむ人に保障制度を設けて安心した楽しい生活の出来るように導いて戴(いただ)きたい」(手記)。実現を見ぬまま、55年に逝った。
向き合う契機
「原爆に生きて」は、「平和都市」を掲げながら十分顧みられていない被害者の苦しみ、悲しみに、市民が向き合う契機となった。30代後半で広島市の民生委員だった藤居平一さん(96年に80歳で死去)は後の広島大の聞き取りに「僕がショックを受けたのは、一番の直接の動機というのは、『原爆に生きて』ですか、あの山代巴さんの、あれを読んでからです」(81年の「資料調査通信」)と語っている。
援護を求める運動を引っ張り、56年結成の日本被団協の初代事務局長に就く。「民生委員としてなんたることか、これはすぐやろう、と思った。今の要求の骨子は、ほとんど『原爆に生きて』に出てます」(編集委員・水川恭輔、下高充生)
(2025年2月26日朝刊掲載)