戦後80年 芸南賀茂 風船爆弾 <上> 米本土狙う「決戦兵器」
25年2月26日
太平洋戦争末期に米本土を無差別に攻撃し、民間人6人の犠牲者を出した旧日本陸軍の兵器が存在した。和紙製の気球に爆弾や焼夷(しょうい)弾をつり下げた「風船爆弾」。竹原市の大久野島などで製造され、9千発以上が放たれたという。風船爆弾が造られた経緯や被害の実態をあらためて追い、関係者の証言などを踏まえ、現代に伝える教訓を考える。(渡部公揮)
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川崎市多摩区の明治大生田キャンパス内にある平和教育登戸研究所資料館。戦時中に秘密兵器の研究開発を担った第9陸軍技術研究所(登戸研究所)の施設を利用している。後に風船爆弾と呼ばれる「ふ号」兵器の開発拠点だった。館内には10分の1サイズの模型が展示され、兵器の不気味さを伝える。
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「戦争の勝敗を決する『決戦兵器』の役割が期待されていた」。同大教授の山田朗館長(68)=軍事史=は説明する。
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1942年8月、陸軍参謀本部が新兵器の開発を登戸研究所など各機関に要請。ミッドウェー海戦の敗北などで戦局が変化する中、米国民の戦意喪失につなげる思惑があったという。米本土への攻撃を期して求められたのが、太平洋を横断する気球兵器だった。
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気球は明治期から戦場での観測など軍事利用が進み、30年代には旧満州(中国東北部)国境からソ連への攻撃を想定して爆弾を搭載するアイデアが具体化。同研究所は宣伝ビラを敵地に投下する気球を手がけ、開発の知見があった。
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<strong>広島からも材料</strong><br><br>
同研究所は約9千キロ離れた米本土を狙うため、偏西風に注目。高度約1万メートルに打ち上げれば2昼夜ほどで到達すると分かり、無人で高度を維持する装置が考案された。
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球皮には、丈夫で国内調達可能なコウゾが原料の和紙を採用し、広島県を含む全国の産地から調達。和紙の接合には、耐水性が高く、水素ガスが漏れにくいこんにゃくのりを用いた。
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同研究所には民間の技術者や大学の研究者が集められ、一大プロジェクトの様相を呈したという。43年11月に直径約10メートルの試作気球が完成。試射を経て44年11月に千葉、茨城、福島県内の3基地から放球が始まった。
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<strong>謀略兵器に変質</strong><br><br>
山田館長によると、当初は爆弾を搭載する想定ではなかった。甚大な被害を与えるため、ペスト菌に感染させたノミが最初の候補だったとみられるという。ただ、高高度の環境下では生存が難しく断念。食料となる家畜を狙った牛疫ウイルスも検討されたが、報復を恐れて見送られた。最終的に爆弾をつり下げたが、気球の浮力から搭載は30キロ前後で破壊力は制限された。
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山田館長は「相手を混乱させる『謀略兵器』に性質が変わった。病原体の搭載を考えるなど、勝てばどんな手段を使っても良いとする姿勢に戦争の恐ろしさがある」と指摘する。
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<strong>第9陸軍技術研究所</strong><br> 諜報(ちょうほう)や謀略など「秘密戦」の兵器と資材を研究開発するために旧日本陸軍が設置した。風船爆弾のほか、生物兵器や偽札、スパイ機材の開発を担った。活動が最盛期の1944年には約千人が働いていたとされる。終戦時に証拠隠滅が図られ、閉鎖となった。
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(2025年2月26日朝刊掲載)