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[ヒロシマドキュメント 1946年] 2月 占領軍記者が市民撮影

 1946年2月。英連邦占領軍の記者として、ステファン・ケレンさん(2003年に91歳で死去)が広島市に初めて入った。がれきが残る市中心部の街並みやバラックに暮らす市民の姿をカメラに収め、被爆者への取材を始めた。

 「橋近くの家は今にも壊れそうだ。とても小さく哀れなので、大恐慌時代の小屋が豪邸に思える」(以下83年刊の「私はヒロシマを記憶する」)。日本人の案内で市内を回り、バラックに住む子どもやまきを拾う高齢女性たちを撮影した。

 赤ん坊を背負った女性に出会った際は、ビスケットを渡し、原爆で溶けた瓶をもらった。被害の痕跡だったが「放射線を浴びているのではと恐れ、新聞紙に包んで彼女が見えなくなるとすぐに捨てた」。広島駅で復員した元日本兵を見ると、「もし私たちが復員して自分の街が破壊されていたらどう感じただろう」と自らに重ねた。

 一方、焼け残ったビルの屋上から市街地を見渡し、廃虚の中を走る路面電車に希望を見いだした。「その姿は広島市に出された死刑執行令状の完全な否定だった」

 広島周辺で過ごした約3年間、被害状況や復興の取材を継続。地元オーストラリアや英国の新聞社などに記事を送った。

 除隊後は編集者や作家として活躍し、シドニーのペンクラブ会長に就く。83年には「反核運動にはずみをつけたい」(同年5月20日付中国新聞)と広島で再取材し、「私はヒロシマを記憶する」を出版した。

 息子で詩人のS・K・ケレンさん(69)=キャンベラ=は「父は原爆による破壊が人類への警鐘となり、広島が平和の象徴となるよう願っていました。しかし被爆から数十年たっても世界で核兵器が拡散し、戦争が絶えない状況に『人類が正気になるには何が必要か』と話していました」。父の思いを受け継ぎ、95年に広島をテーマにした詩を発表している。(山下美波)

(2025年2月27日朝刊掲載)

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