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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1953年夏 映画「ひろしま」製作 被爆者自ら惨禍演じる

 1953年夏。基町高2年だった早志百合子さん(88)=広島市安佐南区=は、市役所近くの教育会館へ毎日のように通った。手記集「原爆の子」(51年刊)が原作の映画「ひろしま」の現地製作本部があった。撮影時に並べるがれきを拾い集めては、届けた。

8万8000人参加

 日本教職員組合が製作資金を集め、関川秀雄さんが監督。同じ手記集を原作とした映画「原爆の子」が前年に公開されていたが、被爆の惨状をより生々しく再現しようと企画された。53年5月に市内で撮影が始まり、広く募ったエキストラは被爆者を含め市民約8万8千人。手記の執筆者たちでつくる「原爆の子友の会」が協力し、早志さんもその一人だった。

 「演技指導を受けた記憶はないんです。当時がフラッシュバックして自然と涙が出た」。9歳だった45年8月6日、爆心地から1・6キロで原爆に遭っていた。炭などで顔や体を汚し、脳裏に刻まれた被爆直後の市民の姿を演じた。スタッフに伝え、衣装を当時に近づけるため服を破ったり燃やしたりもした。

 負傷者が逃れた比治山や運ばれた似島でもロケ。市出身の俳優月丘夢路さん(2017年に95歳で死去)はノーギャラで出演し、建物疎開作業に引率した女学生と共に被爆して命を落とす教員を演じた。

カットを要求

 ただ、大手映画会社は場面の一部をカットするよう求めた。理由は「反米的色彩が強すぎる」(53年9月6日付中国新聞)。朝鮮戦争は7月に休戦協定が結ばれたが、米ソの対立が続いていた。

 問題視された一つは「新兵器のモルモット実験に使われてしまった」とのせりふ。早志さんは原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)での屈辱的な検査を踏まえて「違和感はなかった」と話す。「ふんどし姿で写真を撮られ、血を抜かれたので」。日教組側が要求を拒んだため、大手による配給はかなわず、10月からの公開の場は限られた。

 映画で原爆投下直後の広島の光景の再現が試みられる一方、非人道的な被害は現実に続いていた。前年の52年、広島赤十字病院の山脇卓壮医師は死亡診断書などを調べ上げ、被爆者は白血病の発病率が高いと報告。関連の報道も増えた。

 「治療せず」との批判があったABCCにも心を痛める人はいた。白血病をはじめ血液学が専門の米国人医師ウィリアム・モロニーさん(98年に90歳で死去)。53年9月の日記(米テキサス医療センター所蔵)に記す。「人間の苦しみや哀れみに、どんな国際的な境界線があるのでしょうか」

 そう思わせたのは、ABCCの検査で白血病と分かった皆実小(現南区)3年宮本雅一さん。「とても魅力的な笑顔でトミーのようでした」(以下日記)。無邪気な姿が息子に重なった。

 「病気を打ち負かす知識を少しでも加えられれば」。研究用に持つ新薬を、組織ではなく「個人の関心」として、治療に当たる地元医師に提供した。宮本さんは一時回復に向かったが、54年2月に息を引き取った。9歳だった。(山下美波、編集委員・水川恭輔)

(2025年2月27日朝刊掲載)

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