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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1953年12月 児童図書館完成

海外の支援 基町で実る

 1953年12月。被爆前は軍用地が広がっていた広島市基町(現中区)の一角に、市児童図書館が完成した。平和記念公園を設計した建築家の丹下健三さんが手がけた円形、ガラス張りの特徴的な外観で、海外から贈られた児童書などが書架に並んだ。

光が注ぐ館内

 市勢要覧(52年)によると、建物は「朝顔」のようなデザインで、鉄筋平屋約310平方メートル。同じ基町に建った市営住宅に暮らしていた田辺操子さん(84)=西区=は毎日のように通った。52年に国泰寺中(現中区)に入学していたが、「学校や家ではペラペラの紙を使っていたのに、しっかりした紙で作られた本ばかりで、うれしかったです」。伝記をよく手に取った。

 全面ガラス張りに慣れず、ぶつかってけがをする子もいたという。「入る時はドアを探しましょうと言われました」と懐かしむ。

 当時全国でも珍しい児童図書館ができた背景に、海外からの支援があった。連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局顧問だったハワード・ベル氏が47年に爆心地近くの本川小を視察。不足した学用品などに続き、49年5月に市へ児童書1500冊を贈った。

 市はこれを受け、7月、市立中央図書館の前身で、被爆して建て直した浅野図書館(現中区)に併設する形で児童図書館を開く。50年には、復興援助に取り組む米ロサンゼルスの南加広島県人会から図書館建設費として400万円の寄付も受けた。

 田辺さんは、東千田町(同)の家を原爆で失った。同様に多くの民家や学校の本が焼き尽くされていた。その中で着工した児童図書館。52年12月、まだ書架や椅子がそろわず完成前だったにもかかわらず、「とてもそれまで待ちきれまいと非公式に閲覧」(8日付本紙)を始めた。翌53年の市勢要覧では、蔵書3730冊で、閲覧者数は年間3万9千人と記録している。

子どもの歓声

 48年5月には、近くに児童文化会館が完成し、学校の催しや音楽の演奏会などに使われていた。50年秋には一帯で市などが「広島こども博覧会」を開き、タイから来たゾウが子どもたちを喜ばせた。

 一方で、市は戦時中に陸軍の西練兵場などがあった基町地区の西側の大半を公園用地に位置付けたが、当面の住宅不足に対応するため、田辺さんも暮らした住宅1800戸を広島県などと整備した。文教施設と公営住宅が立つ戦後の基町一帯の土地利用が形作られた。

 市児童図書館は、ガラス張りのため「真夏の太陽を一日中受けるので室内はまったくむしブロだ」との投書も56年8月17日付本紙に載った。市はカーテン設置などを検討したが、抜本的な解決は難しかった。次第に手狭になり蔵書を増やせなかったため、78年に閉館。80年に「こども図書館」として「こども文化科学館」と合築した。(下高充生)

(2025年2月28日朝刊掲載)

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