[ヒロシマドキュメント 1946年] 3月3日 県立2校が合同追弔会
25年3月3日
1946年3月3日。広島市宇品町(現南区)の千暁寺で、いずれも広島県立の広島第二高等女学校(第二県女、現皆実高)と広島女子専門学校(女専、現県立広島大)の合同追弔会が営まれた。同じ敷地内にあった両校は、建物疎開作業などで計約50人の生徒が原爆の犠牲になっていた。
女専の早川甚三教授が書き残した「原子爆弾見聞録」によると、「早くやる積りでは居たが、余り早くても余りに粗略になる」として「桃の節句」に合わせて開いた。遺族約40人と在校生が参列。供え物などは「八サクが食べるものとしては有っただけ、お下りとして遺族に二つづゝ。遺族には其(そ)の外に金十円弔慰金として、ローソクの大きなのを二本づゝ」だったという。
45年8月6日、第二県女は、爆心地から約1キロの雑魚場町(現中区)で建物疎開作業中だった2年生たち約40人が犠牲になった。一緒に動員されていて唯一生き残った平田節子さんが弔辞を読み上げた。瓦を運んでいて被爆。辺りは真っ暗になり、同級生の顔は焼け、服はぼろぼろになって震えていたと当時を振り返った。
「ああほんとにどうしてあの時私一人が助かったのでせう。何故私は死ななかったのだらう(中略)先生やお友達の御名前を呼び続けては枕を濡(ぬ)らしたことも幾夜あったことでせう」。生き残った者のやるせない心境を語り、「お赦(ゆる)し下さい級友の皆様」と結んだ。
被爆当時、第二県女の4年生だった切明千枝子さん(95)=安佐南区=は校庭に集められた後輩たちの亡きがらを火葬し、骨も拾った。学校の慰霊の場に出るたび「生きている私を見て、遺族の親御さんは心の内では怒っているのではと申し訳ない気持ちでいっぱいでした」。
女専は休んでいた生徒2人が亡くなり、6人が行方不明になった。合同追弔会では、原爆で両親を失った2年生の望月登美子さんが弔辞を読み、「冬来りなば春またすでに遠からじ」と平和の礎を築くと誓った。(山本真帆)
(2025年3月3日朝刊掲載)
女専の早川甚三教授が書き残した「原子爆弾見聞録」によると、「早くやる積りでは居たが、余り早くても余りに粗略になる」として「桃の節句」に合わせて開いた。遺族約40人と在校生が参列。供え物などは「八サクが食べるものとしては有っただけ、お下りとして遺族に二つづゝ。遺族には其(そ)の外に金十円弔慰金として、ローソクの大きなのを二本づゝ」だったという。
45年8月6日、第二県女は、爆心地から約1キロの雑魚場町(現中区)で建物疎開作業中だった2年生たち約40人が犠牲になった。一緒に動員されていて唯一生き残った平田節子さんが弔辞を読み上げた。瓦を運んでいて被爆。辺りは真っ暗になり、同級生の顔は焼け、服はぼろぼろになって震えていたと当時を振り返った。
「ああほんとにどうしてあの時私一人が助かったのでせう。何故私は死ななかったのだらう(中略)先生やお友達の御名前を呼び続けては枕を濡(ぬ)らしたことも幾夜あったことでせう」。生き残った者のやるせない心境を語り、「お赦(ゆる)し下さい級友の皆様」と結んだ。
被爆当時、第二県女の4年生だった切明千枝子さん(95)=安佐南区=は校庭に集められた後輩たちの亡きがらを火葬し、骨も拾った。学校の慰霊の場に出るたび「生きている私を見て、遺族の親御さんは心の内では怒っているのではと申し訳ない気持ちでいっぱいでした」。
女専は休んでいた生徒2人が亡くなり、6人が行方不明になった。合同追弔会では、原爆で両親を失った2年生の望月登美子さんが弔辞を読み、「冬来りなば春またすでに遠からじ」と平和の礎を築くと誓った。(山本真帆)
(2025年3月3日朝刊掲載)