[考 fromヒロシマ] 被爆再現人形 伝える「痛み」 「継承」考える議論の入り
25年3月3日
〈私の胸の内を聴て頂きたく思いおります〉。そんな手紙を被爆者の阿部静子さん(98)=広島市南区=から受け取ったのは昨年9月のことだ。したためられていたのは、かつて原爆資料館(中区)に展示されていた「被爆再現人形」への切なる思い。阿部さんの言葉を手掛かりに考える。原爆がもたらした悲惨を伝えるとは―。(森田裕美)
思いは便箋六枚にわたってつづられていた。「あの日逃げて行った私の姿に彷彿(ほうふつ)とした」と自身を投影し、「不在」を嘆く内容だった。
「人形」とは、大人の女性、女学生、少年を模した等身大の3体のプラスチック製人形のこと。被爆者の証言などに基づき、皮膚の垂れ下がった両腕を前方に突き出した負傷者が猛火に追われ逃げまどう姿が表現されている。1973年に据えられた「先代」に代わり、91年のリニューアル時に本館の冒頭展示として置かれた。来館者に強い印象を与えてきたが、2010年の展示整備等基本計画で遺品など実物資料を重視する方針が示され、17年に撤去された。
18歳の時に爆心地から約1・5キロで被爆し、顔や腕を焼かれた阿部さん。手紙を寄せたのは、夏を中心とした報道機関からの取材が落ち着き、かねて胸に引っかかっていたことを筆者に話したくなったからだという。以来、会って対話を重ねている。
かつて同館で証言活動をしていた阿部さんは、修学旅行生らに人形を見てもらった上で体験を語っていた。「やけどの腕を心臓より下にすると痛いんです。だから人形のように腕を上げて逃げました。あの惨状を今の人たちに言葉だけで想像しろと言っても難しいでしょう」。人形を先に見てもらうと「話が伝わりやすかった」と話す。
1997年から2006年まで資料館の館長を務めた畑口実さん(78)は、就任した際に先輩館長の川本義隆さんと高橋昭博さん(いずれも故人)から、被爆再現人形の意義を何度も聞かされたという。
川本さんは91年のリニューアル時の館長、高橋さんは元館長として展示見直しに関わっていた。戦争を知らない世代に被爆の実情をリアルに感じてもらうためビジュアル化を重視。目玉の一つが人形や円形ジオラマで被爆直後の広島を再現したコーナーだった。畑口さんは「川本さんからは来館者を案内する際にはあそこでしっかり説明するよう教わった。原爆が人間に何をもたらしたかイメージしてもらうのに、あの人形の存在は大きかった」と振り返る。
歳月を経て80年前を知る人は減り、鮮烈な記憶は薄らいでいく。近年は広島市教委による平和教材から漫画「はだしのゲン」の引用が削除されたことも波紋を広げた。畑口さんは「生々しく被爆の実相を伝えるものがどんどん取り除かれていくようで、残念に思っている」とも話した。
大やけどを負い、しばらくは隠れるようにして生きてきたという阿部さんも同様に、率直な思いを打ち明けた。人形撤去の是非を巡って論争が起きた際、「見ると気分が悪くなるとか、夜も眠れなくなるお方がおられると聞いて、内心憤りを感じていました」。ヒロシマが表面的に「平和」や「和解」といった言葉と結びつけられ、「きれいごと」として語られる傾向にも、違和感を覚えてきたという。
「あの人形は傷の痛みを訴えるうめき声も、血やうみの臭いもしませんが、実際にあのような人が無数におられ地獄でもこんなひどいことはあるまいと思うほどでした。人形以上に傷ついて立つこともできず何も言えずに亡くなった人がたくさんいました」。それを、阿部さんは「想像してほしい」と訴える。「そのためには作り物でも人形の手も借りたい」と。
核兵器使用も懸念される世界で、被爆の惨状を知る「生き証人」がいなくなる将来を見据え被爆地では今、多様な「継承」が模索されている。私たちはいったい何をどう継承するのか。思考し続けなければならない。
アートの視点で研究 広島市立大で20日から発表
アートの視点から、被爆再現人形を研究する美術作家がいる。広島市立大講師の菅亮平さん(41)だ。昨年、原爆資料館の収蔵庫に眠る人形を借り受け、構造や組成、成り立ちを調査。7~10月には原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で個展を開き、人形を撮影した等身大の写真や調査の過程を記録した映像作品などを発表した。「実話に基づくフィクション」としての人形から、被爆の記憶をどう伝えるか、表現の役割を問う試みである。
細部に至るまで「もの」としての人形の造形を写した作品は、私たちが人形のインパクトや撤去の是非を語る中で、何を見て、何を見てこなかったのかに気付かせる。
菅さんの研究から浮かび上がってくるのは、過去の記憶や他者の痛みに、どう向き合うのかという課題でもある。「核兵器による圧倒的な暴力は現在に続く問題であり、すべての人に開かれた議論があるべきだと思う」と菅さん。
その入り口として20~27日、広島市立大芸術資料館(安佐南区)で個展「Unknown People」を開く。無料。午前10時~午後5時。会期中無休。
(2025年3月3日朝刊掲載)
思いは便箋六枚にわたってつづられていた。「あの日逃げて行った私の姿に彷彿(ほうふつ)とした」と自身を投影し、「不在」を嘆く内容だった。
「人形」とは、大人の女性、女学生、少年を模した等身大の3体のプラスチック製人形のこと。被爆者の証言などに基づき、皮膚の垂れ下がった両腕を前方に突き出した負傷者が猛火に追われ逃げまどう姿が表現されている。1973年に据えられた「先代」に代わり、91年のリニューアル時に本館の冒頭展示として置かれた。来館者に強い印象を与えてきたが、2010年の展示整備等基本計画で遺品など実物資料を重視する方針が示され、17年に撤去された。
18歳の時に爆心地から約1・5キロで被爆し、顔や腕を焼かれた阿部さん。手紙を寄せたのは、夏を中心とした報道機関からの取材が落ち着き、かねて胸に引っかかっていたことを筆者に話したくなったからだという。以来、会って対話を重ねている。
かつて同館で証言活動をしていた阿部さんは、修学旅行生らに人形を見てもらった上で体験を語っていた。「やけどの腕を心臓より下にすると痛いんです。だから人形のように腕を上げて逃げました。あの惨状を今の人たちに言葉だけで想像しろと言っても難しいでしょう」。人形を先に見てもらうと「話が伝わりやすかった」と話す。
1997年から2006年まで資料館の館長を務めた畑口実さん(78)は、就任した際に先輩館長の川本義隆さんと高橋昭博さん(いずれも故人)から、被爆再現人形の意義を何度も聞かされたという。
川本さんは91年のリニューアル時の館長、高橋さんは元館長として展示見直しに関わっていた。戦争を知らない世代に被爆の実情をリアルに感じてもらうためビジュアル化を重視。目玉の一つが人形や円形ジオラマで被爆直後の広島を再現したコーナーだった。畑口さんは「川本さんからは来館者を案内する際にはあそこでしっかり説明するよう教わった。原爆が人間に何をもたらしたかイメージしてもらうのに、あの人形の存在は大きかった」と振り返る。
歳月を経て80年前を知る人は減り、鮮烈な記憶は薄らいでいく。近年は広島市教委による平和教材から漫画「はだしのゲン」の引用が削除されたことも波紋を広げた。畑口さんは「生々しく被爆の実相を伝えるものがどんどん取り除かれていくようで、残念に思っている」とも話した。
大やけどを負い、しばらくは隠れるようにして生きてきたという阿部さんも同様に、率直な思いを打ち明けた。人形撤去の是非を巡って論争が起きた際、「見ると気分が悪くなるとか、夜も眠れなくなるお方がおられると聞いて、内心憤りを感じていました」。ヒロシマが表面的に「平和」や「和解」といった言葉と結びつけられ、「きれいごと」として語られる傾向にも、違和感を覚えてきたという。
「あの人形は傷の痛みを訴えるうめき声も、血やうみの臭いもしませんが、実際にあのような人が無数におられ地獄でもこんなひどいことはあるまいと思うほどでした。人形以上に傷ついて立つこともできず何も言えずに亡くなった人がたくさんいました」。それを、阿部さんは「想像してほしい」と訴える。「そのためには作り物でも人形の手も借りたい」と。
核兵器使用も懸念される世界で、被爆の惨状を知る「生き証人」がいなくなる将来を見据え被爆地では今、多様な「継承」が模索されている。私たちはいったい何をどう継承するのか。思考し続けなければならない。
アートの視点で研究 広島市立大で20日から発表
アートの視点から、被爆再現人形を研究する美術作家がいる。広島市立大講師の菅亮平さん(41)だ。昨年、原爆資料館の収蔵庫に眠る人形を借り受け、構造や組成、成り立ちを調査。7~10月には原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で個展を開き、人形を撮影した等身大の写真や調査の過程を記録した映像作品などを発表した。「実話に基づくフィクション」としての人形から、被爆の記憶をどう伝えるか、表現の役割を問う試みである。
細部に至るまで「もの」としての人形の造形を写した作品は、私たちが人形のインパクトや撤去の是非を語る中で、何を見て、何を見てこなかったのかに気付かせる。
菅さんの研究から浮かび上がってくるのは、過去の記憶や他者の痛みに、どう向き合うのかという課題でもある。「核兵器による圧倒的な暴力は現在に続く問題であり、すべての人に開かれた議論があるべきだと思う」と菅さん。
その入り口として20~27日、広島市立大芸術資料館(安佐南区)で個展「Unknown People」を開く。無料。午前10時~午後5時。会期中無休。
(2025年3月3日朝刊掲載)