[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1954年8月3日 「星は見ている」出版
25年3月2日
一中遺族の訴え切々と
1954年8月3日。原爆で生徒353人が犠牲になった広島一中(現国泰寺高)の遺族の手記集「星は見ている」が出版された。遺族会長の秋田正之さんは巻頭で「われわれの声は低く、弱くはあろうが、この切ない訴えは、平和への捨石とはなるであろう」と心情をつづった。
「一中一中一中とうたいし唄声を耳底(みみ)にのこして去(い)にし子一郎」「夜な夜な死体を焼く火を見ながら仮寝の床につき、あなたの夢ばかり見ました」…。遺族会が4月に80編余りの手記集「追憶」を自費出版。反響を呼んで出版社の目に留まり、うち33編を収録した。
合わせて改題もし、基になったのは1年生の息子を失った藤野としえさんの手記。「魂が天に昇り、星くずとなって、この地上に再びあのような惨禍が起きないようにと、夜毎、静かに私たちを見つめているように思われてきました」
ほぼ全員犠牲
爆心地から約900メートルの広島市雑魚場町(現中区)にあった一中は原爆で校舎が全焼。近くに建物疎開作業に出たり、学校で待機していたりした1年生のほとんどが亡くなった。
3年生は小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に向かった班が全滅した。秋田さんの長男耕三さん=当時(14)=もその一人。逃れた先の己斐(現西区)の工場に捜しに来た両親に「お父さん、すみません。お母さん、すみません」と言い残し、8月7日朝に逝った。
被爆翌年に遺族会が発足。秋田さんが会長に就き、集まっては亡き息子の思い出を語り合った。「いまのうちにありのままを書いて本にしておこう」(63年7月26日付中国新聞)と提案。約2年かけて集めた手記は全25万字に上った。「『星は見ている』は、遺族会の心の中の墓なんです」(同)。自身は「焼けただれた頭に残った一中の学生帽のあとが、いまも私の眼にはっきりと残っている」と刻んだ。
都民が見入る
出版記念として東京・銀座の書店のショーウインドーに展示された一中生の遺品や遺影には多くの都民が見入った。「『ビキニ恐怖』の反響もあって、例年にない強い関心が寄せられた」(54年8月7日付中国新聞)。3月に米国の水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)し、原水爆禁止運動が広がりを見せていた時期だった。
その後、広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の「流燈(りゅうとう)」(57年刊)や広島女学院の「夏雲」(73年刊)など各校の遺族による手記集が出た。
秋田さんは動員学徒の追悼へ観音像の建設にも尽力し、66年に平和記念公園に近い大手町(現中区)に実現を見た。75年に80歳で死去。次男正洋さん(73)=南区=は「普段は厳しい父が毎日のように自宅へ遺族を招き、酒を飲みながらにこやかに話す姿が印象的でした」と振り返る。その思いを継ぎ、84年に「星は見ている」を復刊させた。(山下美波)
(2025年3月2日朝刊掲載)