[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1954年3月1日 「死の灰」漁船や住民に
25年3月1日
1954年3月1日朝。米国が中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験「ブラボー」をした。マーシャル諸島での核実験は、46年に始まり12回目。爆発力は、広島へ投下した原爆のおよそ千倍に相当し、それまでで最大規模だった。
「サァーと黄色い光が船室に流れ込んだ」。ビキニの東約160キロの海域にいた大石又七さん(2021年に87歳で死去)は、著書「ビキニ事件の真実」(03年)に記す。乗組員23人で静岡県から操業に出たマグロ漁船、第五福竜丸に冷凍士として乗っていた。
数時間後、大量の放射性降下物が降り注ぐ。「危険は何も感じなかった。熱くもないし臭いもない。なめても砂のようにジャリジャリして味もない」(同書)。その時は「死の灰」と分からぬまま被曝(ひばく)した乗組員たち。大石さんは当日夜、目まいや吐き気に襲われ、約1週間後には脱毛の症状が現れる。ほかにも多数の船の船員が被曝したとみられる。
現地ビキニの住民は46年の一連の実験開始の前に米軍により移住させられたが、東約170キロのロンゲラップ環礁には86人が暮らしていた。
「人生そのものを奪われた」。ミナ・タイタスさん(71)は生後6カ月で死の灰を浴び、当時負ったというやけどの痕が脚に残る。同じく被曝した父を、後に甲状腺がんで失った。自らも甲状腺を全摘出したほかきょうだいも健康問題を抱え、被曝との関連を疑う。
日本では、実験の約半月後から、第五福竜丸の乗組員の被曝やマグロの廃棄が大きく報道される。原爆の恐ろしさを身をもって知る広島の市民は、党派を超えて「原爆、水爆禁止」を訴えようと動き出す。(下高充生)
(2025年3月1日朝刊掲載)
「サァーと黄色い光が船室に流れ込んだ」。ビキニの東約160キロの海域にいた大石又七さん(2021年に87歳で死去)は、著書「ビキニ事件の真実」(03年)に記す。乗組員23人で静岡県から操業に出たマグロ漁船、第五福竜丸に冷凍士として乗っていた。
数時間後、大量の放射性降下物が降り注ぐ。「危険は何も感じなかった。熱くもないし臭いもない。なめても砂のようにジャリジャリして味もない」(同書)。その時は「死の灰」と分からぬまま被曝(ひばく)した乗組員たち。大石さんは当日夜、目まいや吐き気に襲われ、約1週間後には脱毛の症状が現れる。ほかにも多数の船の船員が被曝したとみられる。
現地ビキニの住民は46年の一連の実験開始の前に米軍により移住させられたが、東約170キロのロンゲラップ環礁には86人が暮らしていた。
「人生そのものを奪われた」。ミナ・タイタスさん(71)は生後6カ月で死の灰を浴び、当時負ったというやけどの痕が脚に残る。同じく被曝した父を、後に甲状腺がんで失った。自らも甲状腺を全摘出したほかきょうだいも健康問題を抱え、被曝との関連を疑う。
日本では、実験の約半月後から、第五福竜丸の乗組員の被曝やマグロの廃棄が大きく報道される。原爆の恐ろしさを身をもって知る広島の市民は、党派を超えて「原爆、水爆禁止」を訴えようと動き出す。(下高充生)
(2025年3月1日朝刊掲載)