[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1954年3月1日 ビキニ被災 原水爆禁止の訴え拡大
25年3月1日
1954年3月1日。中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁での米国の水爆実験で、大量の「死の灰」(放射性降下物)が降り注いだ。乗組員23人が被曝(ひばく)した静岡県のマグロ漁船、第五福竜丸は13日後、焼津市に帰港した。
東京大病院に入院した乗組員を取材した読売新聞は「ビキニ原爆実験に遭遇」「原子病」と16日の朝刊で報道。ほかの報道機関が追った。
広島にいた広島大教授の森滝市郎さんの耳にも入った。「ビキニ原爆実験の灰をかぶりし漁船の乗組員の原爆症発病の報伝わる。ラヂオをきき悲憤やるかたなし。一家おそくまでラヂオききつつ怒る」(16日の日記)
爆心地から約4キロの造船所で被爆して右目を失明し、戦後の教壇では原爆が象徴する力の追求ではなく慈愛を説いた。53年に「広島子どもを守る会」の会長に就き、原爆孤児を支える国内精神養子運動をしていた。
草の根で署名
17日以降も「マグロからも放射能」などと報じられ、全国に衝撃が広がる。ただ、岡崎勝男外相は4月9日、都内での日米協会の演説で「米国に原爆実験の中止を求めるつもりはない」「最近の水爆実験が米国ばかりでなく日本を含む他の自由諸国の安全に必要なことを認めている」と発言。翌日の衆院外務委員会で同様の考えを述べた。
国民からは水爆禁止を求める声が湧き起こった。東京都杉並区では区内の鮮魚店の女性が公民館であった集会で来場者に訴えかけ、草の根の署名運動が始まった。広島市内でも5月15日、「原爆、水爆禁止広島市民大会」が開かれた。子どもを守る会副会長の山口勇子さん(2000年に83歳で死去)たち女性が準備の中心を担った。
児童文化会館に約700人が集まり、「最近の水爆実験による人類の不幸な被害に対し、心から同情を禁じ得ない」と原子兵器の使用・実験禁止などを訴える宣言を発表。「人類」には、ビキニ環礁周辺の住民や米国側の実験関係者の人的被害も念頭にあった。
立場超え連帯
目指していたのは、党派を超えた運動だ。「日ごろはどんな立場の異なった人々でも、このことに関しては手を取り合って、せっかくの人間のエイ知を、残酷その言葉を知らないほどの原・水爆の方に持ってゆかないように出来るはずだ」(17日付中国新聞夕刊への山口さんの寄稿)
大会を契機に広島県内の女性団体やPTA、労働組合など70団体余りが「原爆・水爆禁止広島県民運動連絡本部」を組織。原水爆禁止を求める署名運動を始める。森滝さんは市民大会を「女性を主体とする広島の平和運動に一つの大きな発展」(15日の日記)と感じて運動に加わり、事務局長に就く。
人口約200万人の広島県で、署名は8月6日までに89万人を突破。県民運動連絡本部は被爆9年のこの日、平和記念式典の後に原爆慰霊碑前で平和大会を開いた。「一切の団旗・組合旗をおろして県市民のあつまりの意を表わす」(当日の森滝さんの日記)。約2万人が集まった。
1カ月余り後、森滝さんは日記にある構想を記す。「来年原爆十周年を期し、国民大会又は原・水爆禁止世界会議」(9月7日)。後の回顧によれば、運動が盛り上がる中で誰言うとなく声が出たという。9月23日、第五福竜丸の乗組員の一人の久保山愛吉さんが亡くなり、原水爆禁止を求める声はますます高まる。(編集委員・水川恭輔、下高充生)
(2025年3月1日朝刊掲載)
東京大病院に入院した乗組員を取材した読売新聞は「ビキニ原爆実験に遭遇」「原子病」と16日の朝刊で報道。ほかの報道機関が追った。
広島にいた広島大教授の森滝市郎さんの耳にも入った。「ビキニ原爆実験の灰をかぶりし漁船の乗組員の原爆症発病の報伝わる。ラヂオをきき悲憤やるかたなし。一家おそくまでラヂオききつつ怒る」(16日の日記)
爆心地から約4キロの造船所で被爆して右目を失明し、戦後の教壇では原爆が象徴する力の追求ではなく慈愛を説いた。53年に「広島子どもを守る会」の会長に就き、原爆孤児を支える国内精神養子運動をしていた。
草の根で署名
17日以降も「マグロからも放射能」などと報じられ、全国に衝撃が広がる。ただ、岡崎勝男外相は4月9日、都内での日米協会の演説で「米国に原爆実験の中止を求めるつもりはない」「最近の水爆実験が米国ばかりでなく日本を含む他の自由諸国の安全に必要なことを認めている」と発言。翌日の衆院外務委員会で同様の考えを述べた。
国民からは水爆禁止を求める声が湧き起こった。東京都杉並区では区内の鮮魚店の女性が公民館であった集会で来場者に訴えかけ、草の根の署名運動が始まった。広島市内でも5月15日、「原爆、水爆禁止広島市民大会」が開かれた。子どもを守る会副会長の山口勇子さん(2000年に83歳で死去)たち女性が準備の中心を担った。
児童文化会館に約700人が集まり、「最近の水爆実験による人類の不幸な被害に対し、心から同情を禁じ得ない」と原子兵器の使用・実験禁止などを訴える宣言を発表。「人類」には、ビキニ環礁周辺の住民や米国側の実験関係者の人的被害も念頭にあった。
立場超え連帯
目指していたのは、党派を超えた運動だ。「日ごろはどんな立場の異なった人々でも、このことに関しては手を取り合って、せっかくの人間のエイ知を、残酷その言葉を知らないほどの原・水爆の方に持ってゆかないように出来るはずだ」(17日付中国新聞夕刊への山口さんの寄稿)
大会を契機に広島県内の女性団体やPTA、労働組合など70団体余りが「原爆・水爆禁止広島県民運動連絡本部」を組織。原水爆禁止を求める署名運動を始める。森滝さんは市民大会を「女性を主体とする広島の平和運動に一つの大きな発展」(15日の日記)と感じて運動に加わり、事務局長に就く。
人口約200万人の広島県で、署名は8月6日までに89万人を突破。県民運動連絡本部は被爆9年のこの日、平和記念式典の後に原爆慰霊碑前で平和大会を開いた。「一切の団旗・組合旗をおろして県市民のあつまりの意を表わす」(当日の森滝さんの日記)。約2万人が集まった。
1カ月余り後、森滝さんは日記にある構想を記す。「来年原爆十周年を期し、国民大会又は原・水爆禁止世界会議」(9月7日)。後の回顧によれば、運動が盛り上がる中で誰言うとなく声が出たという。9月23日、第五福竜丸の乗組員の一人の久保山愛吉さんが亡くなり、原水爆禁止を求める声はますます高まる。(編集委員・水川恭輔、下高充生)
(2025年3月1日朝刊掲載)