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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1954年9月29日 カープ草創期

市民後押し 元学徒奮闘

 1954年9月29日。当時22歳で広島カープ選手の長谷部稔さん(93)=広島市安芸区=は、高松市での巨人戦で右打席に立った。控えの捕手だったが、この日は出番が回った。マウンドには巨人の先発陣の一人で、この年も15勝を挙げる左腕の中尾碩志(ひろし)さんがいた。

大喜びの一打

 「真っすぐじゃろうと、ヤマを張ったんよ」。ライト前にライナーが飛び、安打になった。もっぱら投球練習の球を受け続け、練習不足の打撃ではなかなか結果を出せていなかった。それだけに、ファンが大喜びしてくれたこの一打が「今も忘れられん」と話す。

 9年前。13歳で広島県立広島工業学校(現県立広島工業高)2年生だった45年8月6日は、動員されていた軍需工場が休みで爆心地から約9キロの今の安芸区の自宅にいた。「父といた奥の間まで光が入り、びっくりよのう。家の前に爆弾が落ちたんかと」。きのこ雲が見え、けが人がトラックで運ばれてきた。

 千田町(現中区)の木造校舎は倒壊したが焼失は免れた。使える机や椅子を外に並べて「青空教室」で授業を受け、3年生の終わりごろに野球部に入る。闇市ができた広島駅前で「弁当の恐喝」をする少年たちを見たのがきっかけ。「『ぶらぶらしよったら、わしまで同じようになる』と思うて」

 皆実高に統合後、捕手で4番を打ち活躍。カープの結成式があった50年1月、監督に言われ入団テストを受けると合格した。父の知人が関わる銅山で働くつもりだったが、カープの石本秀一監督から「判を押せ」と入団を迫られ、最後には応じた。「じゃが、銭がないんじゃけえ」。親会社がなく1年目から資金難に陥り、給料の遅配が続いた。身売りや解散も取り沙汰された。

 しかし、市民が「カープを救え」と募金を始め、やがて地域や職域に次々と後援会ができると、勢いはさらに増す。長谷部さんたち若手選手は商店街でサイン入りの鉛筆を売り、「カープ強化資金」を集めた。

募金のモデル

 54年、危機を乗り越え5年目に臨むチームは開幕前の2月、米大リーグの大打者ジョー・ディマジオさんの指導を受けた。俳優の妻マリリン・モンローさんと市内を訪れていた。4位でシーズンを終えたが、長谷部さんは56年までの現役生活で最多の41試合に出た。

 今も印象深いのは本拠地の広島総合球場(現西区)での試合後の帰り。バスの車窓から、ネギ畑のあぜ道に生き生きとした表情のたくさんのファンが見えた。「皆さん、本当によう応援してくれました」

 同じ54年、広島では米国のビキニ水爆実験をきっかけに原水爆禁止の署名が拡大。秋になると、被爆10年の55年8月に「原水爆禁止世界大会」の開催を目指す動きが広がり、55年1月に正式に決まる。

 準備に当たる地元市民が広島を挙げて盛り上げるモデルに考えたのは、カープだった。世界大会の広島準備会が開催への支援を募るために作った「募金要領(案)」(県立文書館所蔵)は、目標をこう掲げる。「望み得べくんば、カープに対する熱情を募金及び大会盛上げに再現したい」(編集委員・水川恭輔)

(2025年3月4日朝刊掲載)

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