[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1955年6月 原水禁世界大会の準備
25年3月5日
weight:bold;">募金活動「みんなの手で」
1955年6月。広島市で8月にある「原水爆禁止世界大会」の広島準備会が、広島駅前や繁華街の八丁堀(現中区)で開催支援を呼びかけ、募金活動を始めた。原水爆禁止への国民的な世論の高まりを背に、地元の市民が街頭に立った。
署名が広がる
54年3月の米ビキニ水爆実験後に原水爆禁止署名が各地で広がり、12月には全国で2千万人を突破。広島県では8月下旬に100万人を超え、署名集めを進めた市民組織が発展して9月に原水爆禁止運動広島協議会ができた。
協議会は、被爆10年に合わせ広島での世界大会を構想。事務局長で広島大教授の森滝市郎さんたちが全国組織の原水爆禁止署名運動全国協議会に提案し、55年1月に正式に開催が決まった。森滝さんは大会の「よびかけ」で強調した。
「この大会は原子力時代に入った人類の共同の運命に対処する集会として、あらゆる思想、政治、宗教、社会体制の相違をこえて全人類最初の普遍的集会たる性格を根本とすべきものであります」
広島準備会は5月に発足し、原水爆禁止運動広島協議会や「原爆被害者の会」、市民生委員連盟など地元128団体・個人が参加。森滝さんが事務局長に就いた。活動方針を「原水爆の禁止と原子戦争の準備に反対する人は誰でも自由に参加できるように、唯、その一点において広汎(こうはん)にひろげていく」と掲げ、幅広い市民の参加を目指した。
大会の趣旨の浸透を狙い「戸別募金」の呼びかけを重視。趣旨を書いた募金袋を作り、市小学校PTA連合会や青年会が「1戸10円」の協力を呼びかけた。「みんなの手で成功させませう!」との看板を掲げて街頭活動なども進め、7月30日までに81万円を集めた。
被害実態訴え
準備会はまた、地元の団体の協力を得て原爆被害の実態を伝える大会用資料を作成。「原爆被害者の会」は会員から抽出した被害者44人の調査結果を寄せた。半数が「体がだるい疲れやすい」と答え、被爆の影響とみられる症状が出ても生活苦で医者にかかれない人が少なくないとした。
53年1月に市や医師会などで設立された市原爆障害者治療対策協議会(原対協)も、資料作りに協力した。市で治療が必要な被害者を約6千人と推計。「今後数十年にわたり現障害者の苦痛は持続しかつ新しい患者が発生するであろう」と指摘し、治療費の全額国庫負担を訴えた。
大会の参加希望者は日を追って増えた。準備会の資料によれば、宿舎の確保が課題になったが、市内の婦人会から「私たちの家に泊めて話し合おう」との案が出た。参加者側も「民家に泊めてもらい被害者たちの声を聞きたい」と希望。本会場の市公会堂近くの中島小学校区などの婦人会が計600人を受け入れた。
「忘れられていた被害者 十年間のこの苦しみを 世界の人たちに訴えたい」―。広島準備会は大会開幕が迫る8月1日付の機関紙にこう見出しを掲げた。日程は被爆から10年となる6日から3日間。46都道府県と97全国組織の代表2575人と、海外代表14カ国52人が参加し、被害者の生の声に向き合う。(編集委員・水川恭輔)
(2025年3月5日朝刊掲載)