[ヒロシマドキュメント 1946年] 3月 原田東岷医師が帰国
25年3月8日
1946年3月。当時34歳の外科医の原田東岷(とうみん)さん(99年に87歳で死去)が、軍医として赴いていた台湾から広島へ復員した。爆心地に近い広島市中島本町(現中区の平和記念公園)で開業していた病院は跡形もなかった。
8日に帰途に就き、1週間ほどかけて船で大竹港に着いた。雪の中、列車を乗り継いで古市橋に向かったが、車窓から見える景色に「『無い!広島が無い!』悲痛な声が挙がった」(以下、77年刊の自伝「ヒロシマの外科医の回想」)。安村(現安佐南区)の実家で妻子や父母と再会を果たす。被爆直後には、医者だった父を頼って患者が連日長い列を作ったと聞いた。
ただ、自身はマラリアに感染しており、翌日から寝込んだ。高熱に浮かされながら「爆心地近くに病院を建設せよというひらめきが来た」。市医師会史(80年刊)によると、市医師会名簿に名前のある298人のうち、9割に当たる270人が被爆。医師全体の被爆死は225人に上ったとされる。生き残った医師は市郊外で診療を続けていた。
原田さんは回復後、廃虚で新病院の建設計画に取りかかった。土地は中学の後輩に借り、広瀬町(現中区)に確保した。資金を広島銀行から調達し、建築を親類に頼んだ。11月に木造2階建てバラックで、約20床を備える「原田外科病院」を開業した。
長男で医師の義弘さん(88)=中区=は「父は生涯、原爆に関わる治療は無料で行うのが信念だったようです」。広島県外から訪れる患者には交通費も負担した。
原田さんは生き残った外科医10人を集めて広島外科会も再建。48年に開業医の勉強会「土曜会」をつくり、ケロイドや、放射線の影響による白血病、がんの増加といった後障害について、各分野の症例を報告し合うようになる。55年にはケロイド治療のため渡米する女性たちに同行する。(山本真帆)
(2025年3月8日朝刊掲載)
8日に帰途に就き、1週間ほどかけて船で大竹港に着いた。雪の中、列車を乗り継いで古市橋に向かったが、車窓から見える景色に「『無い!広島が無い!』悲痛な声が挙がった」(以下、77年刊の自伝「ヒロシマの外科医の回想」)。安村(現安佐南区)の実家で妻子や父母と再会を果たす。被爆直後には、医者だった父を頼って患者が連日長い列を作ったと聞いた。
ただ、自身はマラリアに感染しており、翌日から寝込んだ。高熱に浮かされながら「爆心地近くに病院を建設せよというひらめきが来た」。市医師会史(80年刊)によると、市医師会名簿に名前のある298人のうち、9割に当たる270人が被爆。医師全体の被爆死は225人に上ったとされる。生き残った医師は市郊外で診療を続けていた。
原田さんは回復後、廃虚で新病院の建設計画に取りかかった。土地は中学の後輩に借り、広瀬町(現中区)に確保した。資金を広島銀行から調達し、建築を親類に頼んだ。11月に木造2階建てバラックで、約20床を備える「原田外科病院」を開業した。
長男で医師の義弘さん(88)=中区=は「父は生涯、原爆に関わる治療は無料で行うのが信念だったようです」。広島県外から訪れる患者には交通費も負担した。
原田さんは生き残った外科医10人を集めて広島外科会も再建。48年に開業医の勉強会「土曜会」をつくり、ケロイドや、放射線の影響による白血病、がんの増加といった後障害について、各分野の症例を報告し合うようになる。55年にはケロイド治療のため渡米する女性たちに同行する。(山本真帆)
(2025年3月8日朝刊掲載)