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[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 安佐南区川内の横丸さん 「ピカの村」 過酷な母子の戦後

 毎月6日の昼下がり。広島市安佐南区川内の横丸正義さん(94)は、近所の集会所へ向かう。年齢を感じさせない、しっかりとした足取り。「そりゃもう、こまい頃から野良仕事で鍛えられとるもの」。からりと笑う。

 6日は父正留さんの月命日だ。1945年8月6日、村から約10キロ南の市中心部で原爆死した。国が本土決戦に備え、地域や会社ごとに組織させた「川内村国民義勇隊」の一員として、防火帯を造る作業に駆り出されていた。父だけではない。隊は約200人が全滅。村民の実に1割が犠牲となり、川内は後に「ピカの村」とも呼ばれた。

 浄土真宗の「安芸門徒」が多い土地柄。45年9月には、地元の浄行寺で月命日の法要が始まったとされる。やがて集会所でも営まれるようになり、戦後80年がたとうとしている今なお、10人前後がやって来る。住職を招き、その読経に声を重ねる。

 「母にとっては、これが数少ない慰めだったんでしょうよ」と横丸さんはしのぶ。98年に88歳で亡くなった母の露子さん。晩年まで月々の参列を欠かさなかった。「働きづめの人生。本当に苦労しちゃったですから」

 あの日、母は一家の大黒柱を失った。残されたのは4男1女とわずかな田畑。14歳だった長男の横丸さんもまた、過酷な戦後を生きることになった。(編集委員・田中美千子)

(2025年3月13日朝刊掲載)

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