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[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 横丸正義さん 耕作に日雇い 働きづめの日々

母の癒やしは月命日法要

 「原爆に遭うた者だけじゃない。川内の人はみな苦労しとります」。広島市安佐南区川内の横丸正義さん(94)は、戦後の暮らしをそう振り返る。1945年8月6日、爆心地近くに動員された川内村国民義勇隊が全滅し、村には一家の働き手を奪われた70人以上の妻が残された。母露子さんも、その一人だ。

 「あのころは国のためにと、何でも強制されたよの」と横丸さん。「嫌でも仕方ない。戦争中だもの」。実は自らも、任務を課せられていた。

 食糧難を受け、国が44年から各都道府県に組織させた甲種食糧増産隊(通称・農兵隊)。川内国民学校(現川内小)高等科卒業を控えた45年2月ごろ、横丸さんは担任から第2期生になるよう告げられ、広島県修錬農場(現県立農業技術大学校、庄原市)へ向かう。

 県内の郡部から10代の少年が大勢、集められていた。行進、軍人勅諭の暗唱…。軍隊さながらの訓練に続き、横丸さんの部隊は旧可部町や旧伴村へ。「開墾ぐわ」と呼ばれる農具を荒野に振り下ろす日々を重ねた。宿舎のノミにも閉口した。

 原爆投下前夜は偶然、川内にいた。体調を崩し、一時帰宅中。8月6日未明にふと目覚めると、義勇隊へ出発前の父正留さんの姿があった。当時43歳。建物の基礎造りの仕事で稼ぎながら、田畑も耕していた。たくましい背を見たのは、それが最後となった。

 露子さんは必死に夫を捜し歩いたが、遺骨さえ見つからなかった。気丈に振る舞っていたが、乳飲み子だった娘が日増しに衰弱し、8月24日に急逝すると涙を見せた。後に、民俗学者の故神田三亀男氏が編んだ川内の主婦たちの証言録「原爆に夫を奪われて」(82年)で心境を吐露している。

 「一つそこそこの、はかない命じゃった。わけのわからんことで死んだ。あとのことじゃが、わしについた放射能や乳から、悪い毒が清子の体に入って死んだんじゃ思うたことじゃ」

 家族を相次ぎ亡くした悲しみを振り切るようにひたすら土に向き合い、米やキビ、芋を作った。「食い盛りの男の子四人をどうして養うか、思うてもみんさい(略)この村で、わしほど暮らしに困ったもんはおらなんだ」(証言録)。農閑期は日雇い仕事をした。男たちに交じり、工事現場へ。泥水に漬かり、むしろの材料となるガマを刈る重労働もこなした。

 横丸さんも家族を支えるため、終戦前に農兵隊を離れた。夜中に起き出し、十数キロ先の街中へ。母が編んでくれたわらじ2足を一度に履きつぶして、下肥を集めた。日当80銭を稼ぐため、土手の改修工事にも出た。50年に朝鮮戦争が勃発し、国内が特需景気に沸いても「全く楽にならなんだ」。建設業やトラックの運転手を経て、28歳で路線バスの運転手に落ち着いた。

 愚痴一つこぼさなかった母。その癒やしが月命日の法要に参加し、同じ境遇の女性たちと交流することだったのだと、横丸さんは思う。自身も仕事を退き、最期まで一緒に暮らした母を見送った後、顔を出すようになった。

 手を合わせながら思い出すのは、やはり働く母の姿だ。「戦争のせいで苦労させた。大した孝行もできんかった」。当の露子さんは、58年の「慶事」を証言録に残している。「正義に嫁をもろうた。ようやく自由に、楽になった」。互いを思いやり、母子は共に戦後を歩んだ。(編集委員・田中美千子)

(2025年3月13日朝刊掲載)

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