×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1955年8月6日 世界大会の参加者

被爆者のため「一円募金」

 1955年8月6日。兵庫県芦屋市に住む副島まちさん(2006年に93歳で死去)は、10年ぶりに広島市を訪れていた。42歳で4男1女の母親。地元の女性グループ「芦屋あすなろ友の会」で原水爆禁止の署名集めに取り組んでおり、広島市で初めて開かれる原水爆禁止世界大会に出るためだった。

 開幕当日の朝、主会場の市公会堂がある平和記念公園(現中区)では、平和記念式典が営まれた。「物哀しく鳴りわたる平和の鐘を聞きながら、黙とうを捧げた時、十年前のあの苦しみの数々が思い出され、実に感慨無量でした」(以下、56年の著書「あの日から今もなお」)

4児連れ避難

 「あの日」、副島さんは爆心地から約2・5キロの南千田町(現中区)の自宅で被爆した。屋根や壁が壊れた家から幼い4児を連れて逃げた。四男を身ごもっており、陣痛にも襲われながら13日後には戻った家で出産した。

 広島工業専門学校(現広島大)の教授だった夫は召集されており、戦後に復員。副島さんは45年12月、夫を残して広島から新婚当時に住んでいた京都へ移り、夫が48年に神戸工業専門学校(現神戸大)教授に就くと芦屋市に居を構えた。

 広島を離れても、復興する姿を写真で見ており「十年の年月は、すべての苦悩、傷痕をも流し去ったのかと考えていた」。しかし、大会でそうではないと突き付けられる。「私の前に、突然、鮮明に映し出されたもの! それは、被爆者の苦しみだったのです」

 肩から腕にやけどを負ったある女性は3児を一人で育てるため重労働を続けているが、被爆後は疲れやすく現場で「怠け者」と𠮟られると打ち明けた。「十年間畳の上に寝たことがない」「いっそ、死んでしまいたい」などと、ほかの被害者も困窮や苦悩を語った。

 副島さんは「会場の人は誰もが一緒に泣いておりました」「自分が責められるように、辛い気持で聞きました」…。芦屋市に戻ると「何とかしてお力添えしたい」とすぐに原爆被災者救援の「一円募金」を始める。大工に頼んで募金箱を70個余り作り、知人たちの家に置かせてもらった。子どもの手ほどきで自転車を練習し、同じ兵庫県内の神戸市や西宮市にも集金に回った。

 長女千葉孝子さん(83)=芦屋市=は「自分の家族は原爆に遭っても全員無事で人並みの生活はできていた。弱い者いじめが大嫌いな母は、いてもたってもいられなくなったんです」と話す。

 募金は次々と集まり、中学生だった千葉さんは、整理のため1円玉を50個ずつ紙に包むのを手伝った。ただ、当時は平和運動をする人を共産主義者と決めつける空気があり、私服の警察官が副島さんを家まで尾行したことも。「母は、その人にも募金を勧めたそうです」

2万円超える

 募金は翌56年には2万円を超えた。「多額のお金も無論大切ですが、もっと大事なことは、多くの方々が広島、長崎の気の毒な人々を思い出しては、そのたびに一円玉を差出して下さる、その気持なのです」(「あの日から今もなお」)

 活動が地元紙で報じられると、兵庫県内の原爆被害者が次々と手紙で名乗り出た。56年11月には県原爆被害者の会が結成され、副島さんが会長に就く。募金を30年以上続け、見舞いや生活支援に使った。(編集委員・水川恭輔)

(2025年3月17日朝刊掲載)

年別アーカイブ