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連載・特集

『記憶を受け継ぐ』 清水弘士さんー「空白の10年」伝える

清水弘士(しみずひろし)さん(82)=広島市東区

下痢に悩んだ幼少期 口癖は「たいぎい」

 被爆者が「空白の10年」と呼(よ)ぶ時代があります。国の援護(えんご)や、頼(たよ)る組織がほとんどなかった被爆直後からの約10年です。3歳で被爆し、母子で苦境を生き抜(ぬ)いた清水弘士さん(82)は、この時期に焦点(しょうてん)を当て、母の手記などを基に証言活動をしています。

 清水さんは被爆当時、両親と3人暮らし。兄は広島高師(こうし)付属国民学校(現広島大付属小)高等科2年で、勤労(きんろう)動員されて広島県西城町(現庄原市)で農作業に当たっていました。

 8月6日の朝。清水さんと母は約1・6キロの広島市吉島町(現広島市中区)の自宅で、父が出勤(しゅっきん)するのを見送りました。突然(とつぜん)ピカッと光り、ドーンと大きな音がしました。母に抱(だ)きかかえられるも建物の下敷(したじ)きになりました。必死に脱出(だっしゅつ)した母に引っ張り出されると、外は真っ暗だったそうです。

 広島刑務所(けいむしょ)の避難(ひなん)場所へ向かう途中(とちゅう)、清水さんは「僕(ぼく)のべべ(服)は?」などと母に尋(たず)ねました。「3歳でも、とてつもないことが起きたと気づいたのでしょう」

 翌(よく)7日、帰ってこない父を捜(さが)しに国泰寺(こくたいじ)町(現中区)の職場へ向かいました。生存者(せいぞんしゃ)の名前が書き出される中、父の名前はありません。「がれきに向かって、手を合わせる母の姿(すがた)を覚えています」。ところが自宅(じたく)付近へ戻(もど)ると、へたり込(こ)んだ父の姿がありました。被爆時に職場にいた父は顔中にガラスが刺(さ)さりました。広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)で抜いてもらい、はうように帰ってきたのでした。

 3人は西蟹屋(にしかにや)町(現南区)の叔父(おじ)宅にある小屋に住むことになり、兄とも再会できました。父は一時歩けるほど回復。しかし、小屋の修繕(しゅうぜん)を手伝うと力尽(つ)きたのか寝(ね)たきりになり、被爆2カ月後に亡(な)くなりました。最期の父のおなかは青黒くなっていて、母は「ピカのガスをたくさん吸(す)ったからだ」と言っていました。

 父の死後、苦しい生活が5年ほど続きました。母は自宅の焼け跡(あと)から塩の入ったつぼを掘(ほ)り起こし、広島駅前で小分けにして売り始めました。その後も、闇市(やみいち)で小さな屋台を借りて商売を始めたり工場で働いたりして子2人を育てました。西蟹屋町の小屋を追われ、闇市の屋台で暮らした時期もありました。

 清水さんの体にも変調がありました。下痢(げり)や大量の鼻血が続き、疲(つか)れやだるさを感じる被爆者特有の症状(しょうじょう)、いわゆる「原爆ぶらぶら病」に悩(なや)まされました。中学生になるまで体育の授業はいつも見学で、口癖(くちぐせ)は「たいぎい(面倒(めんどう))」でした。

 この時代、連合国軍総司令部(GHQ)は原爆関連の報道を厳(きび)しく取り締(し)まる「プレスコード」を発しました。被爆者は国内外から医療(いりょう)や生活の支援を受けられず、放置されました。被爆者自身も沈黙(ちんもく)しました。清水さんが「空白の10年」を重く感じるのは「助けられたはずの命が助からなかった」と強く思うからです。

 清水さんは2014年から2年間、県被団協(ひだんきょう)と日本被団協の役員を務めました。昨年の日本被団協のノーベル平和賞受賞について「核兵器廃絶の声を上げる必要性が今まで以上に高まっている」と受け止めています。

 50歳ごろから脊髄(せきずい)や腎臓(じんぞう)などの病気も患(わずら)った清水さん。昨年に肺炎(はいえん)と心不全で入院してからは酸素吸入器(きゅうにゅうき)が手放せません。核兵器を「悪魔(あくま)の兵器」と訴(うった)え、自らの身をもって非人道性を伝えています。(頼金育美)

私たち10代の感想

昔話と考えてはいけない

 清水さんは証言する前に「この話を昔話だと思わないで」と語りかけるそうです。最近、私は核兵器がいつ使われるか分からないと感じています。清水さんも80年前と今を重ねるからこそ、そう言うのだと思います。被爆したのは私が住んでいる吉島町でした。身近な場所に戦争の影(かげ)が見えて、昔話と考えてはいけないと心から感じました。(中1岡本龍之介)

戦時中に美しい街はない

 被爆前の広島は緑豊かで、原爆によって一瞬(いっしゅん)で壊滅(かいめつ)させられたのだと思っていました。ところが実際は、空襲(くうしゅう)による延焼(えんしょう)を防ぐための建物疎開によって街はずたずたになっていたそうです。清水さんも「当時の広島は醜(みにく)い街だったはず」と話していました。戦時中に「美しい」という言葉は存在(そんざい)しないのだと強く感じました。(高2中野愛実)

 清水さんは原爆で父親を失い、苦しい生活が長く続きました。それでも「わが家は幸せなほうだ」と話していました。また、清水さんは、被爆から50年近く経って、次々に病気にかかりました。これまでに健康管理手当の支給の対象になる11種類の病気のうち7種類を発症したそうです。「被爆者は死ぬまで原爆を抱えている」と話していたように、原爆被害者が受けた傷は一生癒えません。二度と惨禍を繰り返さないように、清水さんの思いを語り継いでいきたいです。(高3小林芽衣)

 「戦争を一度始めてしまうと終わりが見えない」という言葉が印象に残りました。清水さんは戦後、長い間苦しい生活を送っていたことを教えてくれました。人が殺されてしまうことだけが戦争の被害ではないと学びました。現在、世界では核兵器がいつ使われるか分からない状況になっています。広島の原爆を昔話ではなく、自分ごととして真剣に向き合い、核兵器の恐ろしさを発信する必要があります。被爆者の高齢化により、生の声を聞く機会が減っているからこそ、ご本人から話が聞ける機会を大切にしたいです。(高1山下裕子)

 清水さんと一緒に吉島町へ行って、清水さんのお母さんが大切に持っていたつぼを見ました。戦後すぐに、自宅の焼け跡から掘り出したそうですが、状態は良く見えました。ひびも直されていて、お母さんがとても大切に扱っていたと分かりました。父を亡くした悲しみや、息子2人を自分だけで養う不安もある中、塩の入ったつぼは唯一の希望や喜びだったのではないかと想像します。つぼを見ていると、「もう二度と多くの尊い命を奪い、ありとあらゆるものを破壊した核兵器を使ってはいけない」と私たちに語りかけているようでした。核兵器の使用が危ぶまれる現在、一刻も早く核の危険性を伝えて、戦争は絶対にしてはいけないという世論を高める必要があります。そのために私は、交流サイト(SNS)を使って自分なりの発信をしていこうと思いました。(中3矢澤輝一)

 清水さんのお話を聞いて印象的だったのは、「原爆で壊滅された」という言葉です。それまで私は、広島に原爆が落とされたことで緑豊かな町や日常が奪われたと思っていました。しかし、戦時中の広島では、食べ物は十分になく、人々は戦争によって死ぬことが当たり前の状況だったそうです。戦争でへとへとになった人々が原爆で全滅させられたと聞きました。戦争は人々から生活を奪い、苦しみを与えると改めて感じました。(中2山下綾子)

 私は、これまで広島の街は原爆が落ちていきなり緑のない街に変わってしまったのだと 思っていました。そうではなく戦争でぼろぼろになっていたところに追い打ちをかけるように原爆が投下されたと知りました。戦争のために生きていく社会は怖いです。そうした状況にならないように、被爆者の証言を伝えていくことが必要だと思いました。(中1小林菫)

 ◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2025年3月17日朝刊掲載)

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