×

ニュース

[ヒロシマドキュメント 1946年] 3月 中島地区に仮寺務所

 1946年3月。広島市の中島地区(現中区)に、浄圓寺の仮寺務所となるバラックが建った。被爆前は今の原爆資料館付近に寺があり、街もろとも壊滅。住職の上園志嚴(しごん)さん=被爆当時(62)=とトシさん=同(63)=夫妻が犠牲となり、高知県から復員した長男の志水さん(2000年に85歳で死去)が再建に動いていた。

 71年刊の「広島原爆戦災誌」によると、浄圓寺は材木町にあり、爆心地から400メートルで本堂や山門が炎上。墓石は倒れた。志水さんは45年10月に西福寺(現南区)内に仮寺務所を設けるとともに、焼け跡に毎日のように通い、後継者として門徒との連絡にも努めた。

 元の場所に仮寺務所を構えたのは、親類を訪ねてきた人たちに門徒の消息を伝える場になればとの思いから。住宅営団から購入した被災者用の組み立て家屋だったという。

 47年には門徒の協力で仮の本堂も建立した。一方、復興都市計画作りが進み、元安川と本川に挟まれた中島地区は平和記念公園の整備地となる。

 49年6月、中島地区の浄圓寺、慈仙寺、浄宝寺、伝福寺、妙法寺、誓願寺の6カ寺が連名で「現地復興希望の陳情書」を広島県、市、市議会宛てに提出。「地域内の既存寺院は其(そ)の古き歴史及(およ)び檀信徒の信仰は全く無視せられ」と訴え、既存寺院を除いて緑地を計画するよう求めたが、かなわなかった。

 志水さんの長男で浄圓寺前住職の恵水さん(78)はバラック住宅が次々と撤去され、工事が進む様子を記憶する。「平和のまちづくりと言われたら、父たちも受け入れるしかなかったのだと思います」。寺は木挽町(現中区)に移った後、60年の火事を経て中島町の現在地に至る。(山本真帆)

(2025年3月15日朝刊掲載)

年別アーカイブ