[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1955年8月24日 原爆資料館開館
25年3月18日
展示品収集 市民が協力
1955年8月24日。広島市が平和記念公園(現中区)に建設した原爆資料館が開館した。建築家の丹下健三さんが設計した現本館に並べられたのは、「数百点」(同日付本紙)。初日は約600人が訪れた。
開館した頃の館内の写真に、当時の展示物が納まっている。廃虚のパノラマ模型、熱線を受けた瓦、放射線の健康影響に関する説明パネル…。市内で写真館を営み、8歳の長女を原爆で亡くした岸本吉太さんたち、地元市民が撮った焼け跡の写真もあった。
市は8月6日に施行した資料館の設置条例で「原子爆弾による被災に関する物件、模型、写真、記録、文献」など多様な資料の収集、保管、展示を目的に掲げた。館長には、被爆した岩石などを収集していた地質学者の長岡省吾さんを充てた。
後援会を結成
長岡さんは、市が49年に基町(現中区)の中央公民館に設けた原爆参考資料陳列室、翌年にそばに建てた平屋の原爆記念館で運営の中心を担った。活動に共鳴した幅広い市民が「原爆資料集成会後援会」(後に原爆資料保存会と改称)を結成。展示資料の収集に協力した。
絶えない核実験が被爆地の市民を一層駆り立てていた。資料館に残る会の趣意書(54年9月20日付)は、住民や日本の漁船員たちが被曝(ひばく)した米国によるマーシャル諸島ビキニ環礁での核実験に触れ、「原爆水爆の使用が如何(いか)に人道上の大問題であるかを知ると同時に世界の人々に訴え此災禍を再び繰返さない事を希望する」と記す。
55年5月時点で会員は約50人。教え子を亡くした元教員の山崎与三郎さんが中心となって被爆体験記などの文献資料を数多く集めるだけでなく、資料館内の売店の運営に当たった。広島逓信病院の院長として被爆者の救護に尽くした蜂谷道彦さんも会に参加していた。
託された遺品
資料館の開館時の職員は8人と人員も予算も限られた中、被害者の遺品は市民からの寄贈で増えていった。現在、1体の人形に組み合わせて館内に展示されている広島市立中(現基町高)1年生で犠牲になった上田正之さんのゲートルと、他の生徒2人の帽子やベルト、学生服も寄せられた。
12歳だった上田さんは市中心部の小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に動員されて被爆し、2日後に亡くなった。資料館に遺品を寄贈したのは母キヨさん(86年に86歳で死去)。倒れた建物の下敷きになってけがを負い、似島(現南区)の救護所に運ばれたため、わが子との再会はかなわなかった。
キヨさんの孫で正之さんのめいに当たる田中桂子さん(70)=東京=は、幼少期に一緒に平和記念式典に出席したのを覚えている。「叔父は亡くなる直前に『お母さん、お母さん』と言っていたようです。祖母の悲しみはどれほどだったか」
開館初年度の入館者は11万5千人余り。61年度まで館長を務めた長岡さんは「ここに展示してある資料は、ただの焼けたビンとかカワラとしてではなく、原爆の恐怖を伝える遺品としてみてほしい」(62年2月1日付本紙)と願っていた。(下高充生)
(2025年3月18日朝刊掲載)