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大谷・鈴木の活躍、先達あってこそ 日系人野球史研究家 ケリー・ヨー・ナカガワさんに聞く 日系人野球と大リーグ

 米大リーグの開幕シリーズが18、19日に東京ドームである。ドジャースの大谷翔平、カブスの主軸で元広島東洋カープの鈴木誠也ら、両チームに所属する日本人5選手はどんなプレーを見せてくれるだろう。「彼らの活躍の土台に、戦前に海を渡った先駆者の努力があることも知ってほしい」。日系米国人3世で日系人野球史を研究するケリー・ヨー・ナカガワさん(70)は言う。開幕シリーズに合わせた特別展開催で26年ぶりに来日したナカガワさんに、先祖の墓参りに訪れた広島市で思いを聞いた。(編集委員・田中美千子、写真・高橋洋史)

 ―日本人大リーガーの活躍をどう見ていますか。
 誇らしい。特に大谷選手の存在は貴重だ。投げても打っても走っても超人的。米国でも一時代に一人の傑物と見られている。さらに謙虚さと前向きなエネルギーで人々を引きつけている。ロサンゼルスの球場では感動的な光景を目にした。ラテン系も黒人も白人も、こぞって「OHTANI」のユニホームを着ていたのだ。かつて日系人は優れた才能があっても大リーグでのプレーを許されなかった。歴史を振り返れば、なおさら感慨深いものがある。

 ―その「歴史」について教えてください。
 20世紀初頭に米国へ渡った日系移民は早くから野球に打ち込んだ。黄金期は1920~30年代。カリフォルニア州だけで100近い日系のセミプロチームがあった。私の地元、州中部のフレズノには「日系人野球の父」もいた。広島出身の銭村健一郎さんだ。

 19年に「フレズノ・アスレチック・クラブ」を創設し、選手や監督として活躍した。当時の黒人リーグの強豪とも対等に戦った。24、27、37年と3度のアジア遠征も果たした。27年は慶応や明治などの大学チームに圧勝。同じ年、大リーグのスター軍団との親善試合もフレズノで組まれ、シーズン60本塁打の記録を打ち立てたベーブ・ルース率いるチームを打ち負かした。

 ―ご自身の家族にも選手がいるそうですね。
 私の孫も含めれば、5世代にわたり野球を続けている。父方の伯父ジョニーは銭村さんのチームメート。大谷選手と同じ「二刀流」だった。大リーグで通用する成績を残したが、プレーできるはずもない。根強い差別があったからだ。

 ―41年12月、旧日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃。日系人への敵意が強まりました。
 翌年2月に「大統領令9066号」が発令され、日系人は「敵性外国人」として強制収容された。銭村さん一家も私の家族も財産を奪われ、フレズノを追われた。多大な犠牲を強いられながら日系人は野球を諦めなかった。アリゾナ州の砂漠に送られた銭村さんは荒野を開拓し、球場を造ったことで知られる。収容所内に32ものチームができ、リーグ戦も行われた。

 ―戦後どうなりましたか。
 銭村さんは日米交流にも一役買った。53年にカープ初の外国人選手となった息子の健三と健四たち、日系2世選手を日本に送った。55年からカープで活躍したフィーバー平山(平山智)も教え子だ。5ツール(米球界が指標とするミート力、長打力、走力、守備力、送球力)と情熱さえあれば野球選手は尊敬を集められる。人種も宗教も関係ない。皮肉な歴史を歩んだ二つの祖国も、野球を通じて再び通じ合える。彼はそう信じたのだろう。

 ―19日まで東京スカイツリーで開く特別展を「太平洋の架け橋となった野球」と銘打ちました。
 銭村さんたちのアジア遠征から100年。64年に日本人初の大リーガーとなった村上雅則さんや、野茂英雄さん、イチローさんたちの功績もあり、その橋を今や日米の選手が行き来している。今回は隠れた歴史を伝えるパネルを並べ、反応は上々だ。展示は98年にクーパーズタウンの野球殿堂でも開いたが、会期は半年だった。夢は常設展にすることだ。トランプ政権が多様性・公平性・包括性(DEI)に関する政策の廃止を打ち出し、かつてない分断が進む今こそ、実現させたい。大谷選手は「結束」や「多様性」の価値を教えてくれる。この展示も人々を啓発し、刺激することができると思う。

 米カリフォルニア州フレズノ出身。テレビ局勤務などを経て1996年から日系人野球史を研究。「2世ベースボールリサーチプロジェクト」代表。強制収容された日系人家族を描いた映画「アメリカンパスタイム 俺たちの星条旗」(2007年)の製作陣にも名を連ねた。

(2025年3月18日朝刊掲載)

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