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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1955年10月25日 禎子さんの死

血液記録や折り鶴残る

 1955年10月25日。広島市の広島赤十字病院(現中区)に入院していた12歳の佐々木禎子さんが、白血病のため亡くなった。家族に見守られる中、茶漬けを食べたがったという。口に含ませてもらうと「おいしい」。最期の言葉になった。

 8カ月前、幟町小(現中区)の6年竹組だった禎子さんは、原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)で白血病と診断されていた。2歳の時に爆心地から約1・7キロの楠木町(現西区)の自宅で被爆。けがはなく健やかに育ち、リレーで活躍するほど運動神経が良かったが、小学6年の冬に首の腫れに気づき、不調を訴えた。

 2年生から同じクラスだった川野登美子さん(82)=中区=は、迎えに来た父繁夫さんに付き添われて学校を後にする禎子さんの姿を覚えている。「寂しそうに何度も、私たちの方を振り返っていました」。2月21日、禎子さんは赤十字病院に入院した。

手書きのメモ

 「原爆のせいらしい」と級友たちが担任に聞かされた一方、本人には「原爆症」ということは伏せられた。ただ、入院当初からの血液検査の結果を自ら手書きしたメモが原爆資料館に残る。B5判大のわら半紙に小さな字で「赤」(赤血球)「白」(白血球)「血」(血色素=ヘモグロビン)の数値を記録していた。

 理髪店を営む両親に代わり幼い妹や弟の面倒をよく見ていた禎子さんは、入院中も子どもに好かれた。病院の同室で2歳上の大倉記代さん(2008年に67歳で死去)は「想い出のサダコ」(05年刊)で「周りにはいつも笑い声が聞こえていました」と振り返る。

 だが、7月、顔見知りの幼い少女が白血病で亡くなった時は「うちもああなって死ぬんじゃろうか」と漏らしたという。肩を思わず抱くと「薄い浴衣に包まれた彼女の肩は想像以上にやせて骨ばっていてその感触は今も忘れられません」。

 8月初めに名古屋市の高校生たちから見舞いの折り鶴が届くと、禎子さんは鶴を折り始める。入院患者への見舞いの包装紙を集めて回り、切って折り紙代わりにした。大倉さんと共に消灯後も折り続け、1カ月足らずで千羽に達した。

 川野さんが8月に見舞った時も話をしながら、手足に出た斑点を布団で隠すようにして鶴を折っていた。「中学の様子を聞かれるのがつらくて…」。それが2人の別れとなった。10月26日付中国新聞は「原爆症」という医師のコメントを付けて禎子さんの死を短く報じた。

原爆の子の像

 禎子さんの級友たちは「団結の会」をつくり、幟町中に進んだ後も見舞いを続けたが、学校生活に追われ、途絶えがちになった悔いを残した。「禎ちゃんのために何かしなければ」との思いが、「原爆の子の像」建立につながっていく。

 56年には追悼集「こけし」を発行。母フジ子さんはその中で、「一日の生活にもやっとの家計」という苦境の中でせめてもの「最大の愛情」で娘の闘病を支えようとしたと吐露。癒えぬ悲しみや級友への感謝の気持ちを表した。(山下美波)

(2025年3月19日朝刊掲載)

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